日本橋(東京都中央区) 東京メトロ銀座線三越前駅下車徒歩2分

 

 

日本橋1     F4

 

日本橋の西面です。欄干中央の灯篭の上部は高速道路に遮られ見えません。戦後の高度成長期において景観より経済性を重視した政策の象徴的な痕跡の一つです。木造の橋から現在の石造になったのは明治44年だそうです。(国の重要文化財)

江戸時代になってから五街道(東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道)の起点となったことから「日本橋」と名付けられたと言われています。現在も日本の道路網の始点として、路面の中心に「道路元標」が埋め込まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本橋2     F4

 

日本橋の欄干彫刻と日本橋通り。日本橋の真上に被さる首都高速道路を入れないで日本橋を描くのは容易ではありません。欄干の4隅に配置した灯篭だけが、高速道路を入れないで描けるのです。実を言うとこのアングルは、故喜多迅鷹先生のブログに掲載されている日本橋の絵を真似たものです。先生のは南西側の灯篭を入れた京橋通りの絵です。旧中山道の起点として、日本橋の欄干中央の灯篭にある「翼のある麒麟像」を首都高抜きで描きたかったのですが、適当なアングルが見つけられませんでした。

 

東大赤門(文京区)   F4

 

赤門を東大構内から見た景色です。現在のこの場所には江戸時代、加賀藩上屋敷がありました。赤門は11代将軍徳川家斉の娘溶姫が前田家に嫁いだときに建てられたものですが、明治時代初期に東大に移管されています。朱塗りの重厚な門は東大のシンボルとなり赤レンガの塀や常緑樹によく調和しています。旧中山道沿いの広大な東大キャンパスは都会の喧騒とは無縁の別世界でした。。なお左の絵では背後の高いビルを省略しました。

 

 

 

伊勢屋(文京区)    F4

 

菊坂下交差点から菊坂を少し上ったところにある旧伊勢屋跡です。土蔵を持つ商家は都心部では大変貴重な存在になりました。樋口一葉旧居跡にも近く、案内板によると一葉とも大変関係の深い質屋だったそうです。

 

伊勢五商店(文京区)     F4

 

千石本町通り商店街の伊勢五商店。古くからの米屋で、大谷石造りの蔵と江戸風出桁造りの店は周囲を圧する存在感がありました。文京区本郷、西片、白山、千石は関東大震災、東京空襲の被害を免れた地域なので、今でも古い建物が点在します。安野光雅さんのスケッチ集「街道をゆく」の本郷界隈を参考に、特に西片2丁目を時間をかけて歩きましたが、期待した景色には出会えませんでした。閑静な住宅街ですがすっかり新しい邸宅に変わってしまったようです。

1.板橋宿東京都板橋区)  JR板橋駅より徒歩15分、都営三田線板橋区役所前駅より徒歩3分

 

 

板橋    18X26cm

 

石神井川に架かる板橋です。板橋の地名発祥になった橋です。この橋の前後が板橋宿の中心部でした。橋の東側には今も仲宿の地番表示がありました。現在の板橋1丁目あたりに平尾宿、板橋の東に仲宿、板橋を渡って清水町あたりまで上宿、これら三つの宿場をまとめて板橋宿といったそうです。かなり距離の長い宿場で、本陣1、脇本陣2、旅籠54軒の大きい宿場だったとか。江戸に近いため行きも帰りも素通りする旅人が多いなか、飯盛り女を目当ての江戸の侍や町人で大いに繁盛したそうです。現在の橋はコンクリート製なのが何とも味気ないですが、板のように表面が塗装されています。石神井川両岸のケヤキや桜並木と調和し、桜が咲く頃は良いだろうなと思いました。

 

 

志村一里塚   27X33cm

 

志村一里塚の江戸に向かって左側に、竹用品の斉藤商店があります。竹屋としては都内でただ一軒の店だとか。断って裏の方まで写真を撮らせてもらいましたが、昭和8年に建替えたという建物は見ごたえがありました。歩道の突き当りが一里塚です。

2.蕨 宿(埼玉県蕨市) JR京浜東北線蕨駅より徒歩15分

 

 

町屋    F4

 

蕨は板橋の次の宿場ですが、浦和や大宮に比べると古い商家が残っています。明治16年高崎線開通時に地元の反対で中山道から1kmも東に線路を敷設したからです。江戸時代には先に戸田の渡しがあったことから賑わい、江戸末期から明治時代には機織りの町として栄えたそうですが、時代とともに蕨宿の賑わいは駅周辺へと移っていったようです。これは蕨宿の中ほどにある古い町家ですが、蔵も母屋も非常に小じんまりとした造りです。