室津漁港1(兵庫県姫路市)  F4

 

室津港内を北側の山腹を走る自動車道から見た景色です。江戸時代の参勤交代時に西国大名の殆どが室津で下船し、陸路を江戸へ上ったため、室津には本陣が6軒もあったそうです。明治時代になって参勤交代がなくなり、室津は急速に衰退していきます。今は昔の栄華を伝える遺構も僅かに残るだけ、訪れる人も少なくひっそりとしていました。山陽電鉄の山陽網干駅が最寄駅ですが、バス便も1日数本しかなく、この日も行きはタクシーでした。歴史的遺構の多い鞆の浦へは福山駅前から日中20分ごとにバス便があるのと比べるとその差は余りにも大きく、さながら陸の孤島になった室津です。しかし、漁港としての景観はさすが天下に聞こえた室津でした。

 

室津漁港2   F4

 

室津の港と町をゆっくり一巡りしたあと、この高台に来ました。ここからは室津港の赤灯を中心に全体が見渡せます。港の右側(北)は自動車道から港に降りるループ橋が目立つため割愛しました。かつて室津千軒と言われた繁栄がウソのような静かな漁港です。直ぐ下の通りに室津海駅館(廻船問屋嶋屋跡)、室津民族館(同魚屋跡)があり、僅かに豪商の名残が感じられました。鞆の浦のように毎日観光客が押し寄せるのも良いこととは思えませんが、観光資源を残した町と残せなかった町の違いが余りにも大きいのも事実です。個人的には現在の室津のほうがノスタルジックな漁村の生活が感じられ好ましく思われましたが・・・。

鞆の浦1(広島県福山市) F4

鞆の浦城山公園からの夕景です。画面が上下に分断されるため、左に半分だけ見える玉津島から右手に伸びる防波堤を省略しました。鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、潮の流れが干満のため鞆の浦あたりで逆転します。そのため古代より瀬戸内海を航行する船が潮流が変わるのを待つ「潮待ちの港」として栄えてきました。家並みの前方に往時は灯台であった常夜灯が見えます。雁木、波止場、船番所なども昔のまま残されています。常夜灯に向かう中央の路地は鞆の浦の核心部で、江戸時代にタイムスリップしたような町並みがありました。港の周りや街路を歩いたあと、戦国時代に毛利氏が開いたといわれる鞆城址に上がり、釣瓶落としに暮れていく瀬戸の景色に感動しました。

 

鞆の浦2    F4

 

鞆の浦の西の山裾に位置する医王寺からの眺望です。港の中心に常夜灯がみえます。前方の大きな島が景勝地として名高い仙酔島です。鞆港東の岬と重なっているのが無人島のつつじ島です。古代から栄えた鞆の浦も近世になって航海技術が進歩し、「潮待ち」の必要がなくなるにつれ港湾拠点としての役割は尾道などへ移っていきました。現在は漁港として利用されています。城山公園も医王寺も絶好の写生ポイントです。グループでも並んで描けるくらい場所も広く、絵描きに人気がある理由がよく分りました。それにしてもこんなに沢山の家を描いたのは初めてです。

 

鞆の浦3     F4

 

これも医王寺からの眺めです。鞆の浦2からアングルを若干西に振った景色です。この日は大変穏やかな天気で風も凪いでいました。遠景の大きな島は走島でしょう。遥か遠くに備後岬でしょうか四国本土も見えました。広大な海原、幾重にも重なる島々、行き交う船などを眺めていると故郷の景色を思い出します。何時までも眺めていたい見飽きない風景です。画面の約半分もの海を描いたのは初めてですが、やはり海面を濁さないように描くのは難しいなと思いました。

 

鞆の浦4   F4

 

鞆港でバスを降りたら、この景色がありました。鞆の浦のシンボルでもある常夜灯といろは丸展示館です。この絵の手前の雁木と常夜灯の傍の雁木は江戸時代からの船荷のおろし場です。右手には旧い民家も連なっており、ここも良く描かれるポイントです。船溜りや小さな私設の桟橋が面白いなと思いました。後で気がついたら、常夜灯と水平線が傾いています。何故か最近こういうことが多いのですが、万年筆と耐水性イカ墨インクで下書きするため描き直せないのが厄介です。

 

鞆の浦5    F4

 

鞆の浦の旧い町並みです。右は古民家を利用した深津屋というカフェですが、生憎店は休みで暖簾が出ていません。袖壁のうだつのような扇形の飾りは何でしょうか?魔除けそれとも泥棒除け?隣の家は澤村屋というレトロな船具店です。平戸でも旧い船具店を見かけましたが、どちらも港町の歴史が感じられました。澤村屋は現役の商家ですが、近江路でよく見かけたベンガラ塗りの壁が美しいなと思いました。このあたりは重伝建地区には指定されていませんが、江戸・明治の建造物が多いそうです。

 

 

鞆の浦6    F4

 

上の通りを反対側から見た景観です。古民家が軒を連ねる鞆の浦の核心部です。通りの名称が定かではないため、「鞆七卿落遺跡通り」と勝手に名付けました。表通りに「鞆七卿落遺跡200m」の道路標識もありました。幕末、倒幕運動に破れた三条実美など7人の公家が、京都を追われ長州に逃れる途上立ち寄ったと伝えられる太田家住宅朝宗亭がこの通りにあります。鞆の浦は江戸時代中期・後期の町絵図に描かれた狭い街路がそのまま現存する唯一の町だそうです。この通りを抜けると常夜灯のある波止場です。

鞆の浦7    F4

 

鞆城址公園から見た鞆の浦港正面の景色です。日が西に傾き、それまで穏やかだった海面に風がさーっと吹き渡り始めたようです。こうしてみると瀬戸内海も広いなと感じます。ここからは見えませんが、左手の岸壁が路線バスの終点です。そこから先に大型車が入れる道がないため、鞆の浦港を跨いで道路橋を架ける計画がありました。景観を損なう、港内の歴史的遺産を壊すなど、世論の強い反対もあって山側にトンネルを掘る計画に変更されたそうです。地元でも日常生活の利便性を取るか、歴史的遺構や観光資源を守るか判断に迷ったことと思います。無責任な他所者にとっては、このままのほうが大歓迎ですが。

 

 

尾道水道1(広島県尾道市) F4

 

尾道水道の朝の風景です。尾道駅に近い岸壁から見た対岸の景色です。朝は向島との間のフェリーなど尾道水道を行き交う船が多く活気がありました。タグボートなのか運搬船なのか定かではありませんが、巡視船の停泊するドックの前を、白波を立て全速力で走っていました。東京の隅田川や運河をタグボートがダンベ船を引いて走るのも描いてみたいのですが、偶にしか行かないためかそんな好機になかなか恵まれません。この日はラッキーでした。ドックの上の樹間に小さな灯台も見えます。

 

尾道水道2   F4

 

尾道水道の中ほどにあった小さな渡船場です。尾道水道には向島との間のフェリー乗り場は3箇所あるそうですが、ここは一番東寄りの桟橋です。この日福山駅前のホテルを朝早く出て、尾道駅に8時半頃着きました。電車を降りてすぐ近くの岸壁に出ると、向島との間をフェリーが何艘も行き来していました。向島には造船所や工場が多いためか、乗客や車をピストン輸送していました。上は昼過ぎの桟橋ですが、船の出発時間までまだ間があるのか人影はありません。桟橋の左側に停泊中の緑のテント屋根の船は鞆の浦港への定期船でした。かなり小さい船です。鞆の浦まではさほど遠くないのでしょう。

      

尾道水道遠望   F4

天寧寺三重の塔のすぐ上の小公園から尾道市街と尾道水道・尾道大橋(新尾道大橋との2連橋)を俯瞰しました。ここには平山郁夫画伯が描かれた「しまなみ海道五十三次スケッチポイント」の石碑がありました。石碑にはスケッチ画のコピーもあり、三重の塔の一番上の屋根と新尾道大橋をアップにした構図でした。上は画伯と同じアングルですが三重の塔であることが分るようにとやや俯角を広げてみましたが、細かい屋根が多すぎて、描いているうちに何が何だか分らなくなりました。山陽本線の下り列車は、この絵の正面の岬を回って、新尾道大橋の下を通り尾道市街に入ってきます。この時車窓からクレーンが林立する尾道水道が目に飛び込んできます。尾道独特の印象的な景色です。この後、新尾道大橋に近い漁港まで歩いて行きました。

 

尾道漁港     F4

 

尾道水道の東、尾道大橋に近い漁港です。数基の離岸堤で囲まれただけの船溜りです。川のように狭い水道のため潮の干満差が大きく、潮流も非常に激しいそうです。何を獲る漁船か分りませんが、どの船も帆布を畳んだ屋根を持っています。また緩衝用タイヤとは別に多角形の黒い輪を舳先に搭載しています。地方によって目的とする漁獲物や漁の仕方が異なるためか、漁船の形状や装備などに特色があります。最近の漁船はプラスチック船が多いのですが、手前の船は古い木造船のようです。