18.軽井沢宿(長野県北佐久郡軽井沢町) JR長野新幹線軽井沢駅・しなの鉄道軽井沢駅より徒歩16分

 

 

軽井沢銀座   F4

 

旧軽井沢宿の現在の姿です。洒落た店が並ぶ軽井沢銀座通りです。夏は東京から有名店も来て観光客で大混雑する通りです。軽井沢宿は天命3年(1783年)の浅間山大噴火で全焼し、その後寂れた時期もあったようですが、険しい碓氷峠越えを控えた宿場として復興します。明治時代に鉄道が開通してから避暑地開発が進み、軽井沢宿は別荘族向けの商店街に変貌してゆきます。今では街道の面影は払拭され、ここが中山道の宿場であったことを知る人は少ないのではないかと思います。遠景の山が碓氷峠、前方に向かってゆるやかな上り坂です。これも以前描いたものを描きなおしましたが、旧作のほうが光が感じられて良かったと家族の厳しい意見がありました。まあ、画力がアップしていないので仕方ありませんが。

 

 

ショー記念礼拝堂   F4

 

碓氷峠下の二手橋に近いショー記念礼拝堂です。木造の小さな教会ですが、右手奥にショーハウス記念館があります。明治時代、英国人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーが軽井沢を避暑地として紹介した別荘第1号山荘です。当時(明治19年)鉄道は横川までだったので、険しい碓氷峠を歩いて超えたそうです。明治26年碓氷峠越えの鉄道が開通して軽井沢の避暑地開拓が進みます。左手の奥には礼拝堂を守っている牧師の住宅があり傘などが干してありました。

 

 

つるや前街道     F4

 

ショー礼拝堂から中山道を下ってくると右手につるや旅館がありました。昔の茶屋跡ですが旅館となり、芥川竜之介、堀辰雄、谷崎潤一郎など多くの文豪が滞在したそうです。現在の建物は建て替えられたものですが、看板や連子格子の窓などに往時の面影を残しています。前方が碓氷峠への道で、両側の林の中は別荘地です。

19.沓掛宿 (長野県北佐久郡軽井沢町) しなの鉄道中軽井沢駅より徒歩1分

  

 

湯川と浅間山1    F4

 

中軽井沢駅前の湯川に架かる橋の上から見た景色です。前方の赤い橋は長倉神社参道で右手が神社境内です。中山道沓掛宿はここから左(西)になりますが、昔の面影は殆ど残っていませんでした。沓掛は昭和26年の大火により宿場遺構を全焼し、その後の街づくりによって地名まで中軽井沢に変わってしまいました。神社北隣の公園に沓掛時次郎の大きな石碑がありました。しかし沓掛時次郎は長谷川伸創作の主人公で実在の人物ではありません。沓掛宿で昔と変わらないのは浅間山の眺めだけかも知れませ

 

 

湯川と浅間山2   F4

 

こちらはしなの鉄道中軽井沢駅前の橋の下流左岸にある小公園からの眺めです。軽井沢から追分にかけての中山道から浅間山は非常に間近に見えますが、このあたりから見た浅間山の眺めが一番良いと思いました。

20.追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町)  しなの鉄道信濃追分駅より徒歩25分

 

 

借宿1     F4

 

沓掛宿が期待外れだったので、タクシーで追分宿との間にある借宿に行ってみました。借宿は中馬(牛)(宿場問屋を経ず、荷主と直接契約で荷物を運んだ運送業者)の宿場として賑わったところです。今もところどころに街道らしい町並みが残っていました。この辺り両側は古い造り酒屋のようですが、建物が道路から後退して建てられているため道幅がかなり広く見えました。時々車が通るほか人影は見えませんでした。

 

 

借宿2     F4

 

借宿から信濃追分駅に向かう道から見上げた借宿の家並みと浅間山です。このあたりは標高1000メートル近い高原です。広い畑にはまだ作物は見当りません。この日は日中の気温が19度まで上がり、歩いていると暑いくらいでしたが風は爽やかでした。

追分     F4

 

中山道と北国街道との分去れ(分岐点)です。右が北国街道、左が中山道です。追分の地名にもなりました。常夜灯の周りには道標、歌碑、道祖神、観音像などもありなかなか賑やかです。北国街道は善光寺街道とも呼ばれ、善光寺宿を経て、直江津で北陸街道に合流します。加賀藩など参勤交代の大名行列もおそらくこの道を通ったのでしょう。佐渡の金を江戸に運ぶ重要な道でもあったそうです。交通の要衝にあり往時は中山道随一の賑わいと言われた追分宿ですが、現在は軽井沢町追分として静かな別荘地になっています。

 

骨董品店     F4

 

宿場の中ほどにある現金屋という骨董品店です。旅籠跡でしょうか旧い建物をそのまま利用しています。中は覗きませんでしたが、何か掘り出し物でもありそうな雰囲気です。この店の隣が元脇本陣の油屋旅館です。堀辰雄が「風立ちぬ」を油屋の「お小姓の間」に閉じこもって書き上げたと言われています。油屋は大変風情のある旅館ですが、鬱蒼とした木立に囲まれ道路側からは建物の一部しか見えませんでした。追分宿の東のはずれに堀辰雄文学記念館がありました。本陣(土屋家)の門を移設し利用しています。記念館の建物は堀辰雄が後年追分に建てた自宅を移設したものだそうです。

 

借宿から見た浅間山   F4

 

早春の浅間山です。浅間山は軽井沢から追分にかけての中山道から良く見えます。中でも借宿から西の中山道からは山容が大きく見えました。前方の道路は旧中山道です。このあたりは標高1000m以上の高原地帯のため、畑は耕されてはいますがまだ作物がありません。3年前の4月初旬に訪ねた時に撮った写真から描きました。暖かい日でしたが風が爽やかだったことを良く憶えています。悔しいですが絵は爽やかになりませんでした。