27.長久保宿  長野県小県群長和町)  JR上田駅より長和町営バス52分

 

長久保宿町並み    F4

 

長久保宿竪町(たてまち)の中ほどから江戸方(北)を見た町並みです。長久保宿は和田宿経由の諏訪道(中山道)と善光寺道(北国街道)への上田道との分岐点にあり、信濃路では塩尻宿につぐ旅籠の多い宿場でした。明治以降、宿駅制が廃止され、鉄道からも遠く離れたため寂れた宿場の一つです。長久保宿と次の和田宿は中山道69次の中では最も公共交通の不便なところです。この日は上田市に住む元会社同僚Mさんの車で案内して貰いました。Oさんも一緒でしたが、宿場や町並みにはさほど興味も無さそうな、絵を描かないお二人はさぞ退屈だったのでは・・・。

28.和田宿 (長野県小県郡長和町) JR上田駅より長和町営バス長久保下車(52分)

                   長久保にて巡回バス乗り換え上和田下車(22分)

 

 

 

和田宿1    F4

 

長久保宿から和田宿に向かう途中にある大門川と依田川の合流点落合です。中山道は向かって左の大門川に架かる落合橋を渡り、さらに右の依田川に架かる和田橋を渡ります。この辺りは広重が長久保宿のモチーフにした所といわれています。距離的には長久保宿に近いのですが、ここはもう旧和田村(現長和町和田)です。

 

和田宿2    F4

 

和田宿下町の町並みです。左が下問屋跡、右手に僅かに見えるのが旅籠かわちや跡です。かわちやは「歴史の道資料館」として公開されています。この先左に本陣跡(長井家)がありました。中を見学し案内係の説明では、文久元年(1861年)3月の大火で宿場のほとんどを焼失し、同年11月には皇女和宮の宿泊が決まっていたので、幕府の拝借金を得て村をあげて復旧したそうです。現在和田宿に比較的多くの遺構を見ることが出来るのは、鉄道から遠いうえに、前記の事情で江戸末期に再建された建物が多かったからと思われます。次の下諏訪宿まで約22km、五街道で最も高い和田峠(1600m弱)を控えて昔は賑わった和田宿ですが、今は「歴史の道」を守る静かな山麓の町でした。

29.下諏訪宿 (長野県諏訪郡下諏訪町) JR中央本線下諏訪駅より徒歩10分

 

下馬橋    F4

 

諏訪大社下社春宮前の「下馬橋」、屋根尽きの太鼓橋です。御手洗川の一部が埋められて参道の真ん中に橋だけが残ったものです。昔は大名もここで馬を下りたとか。馬に乗ったままでは渡れないよう低い屋根を付けたのかも知れません。この日は春宮から東の秋宮まで旧中山道を歩きました。道幅も昔のままのようで、僅かですが古い家も点在します。秋宮に向かって急な上り坂の手前道路の両側に旅籠跡らしい温泉旅館がありました。甲州街道の終点が諏訪神社秋宮なので、中山道唯一温泉の湧く宿場として、下諏訪は昔も今も賑わっています。中山道沿いには今年行われた諏訪神社の御柱祭りの幟が立っており、秋宮境内に造営中の御宝殿の周りには巨大な御柱が垂直に立てられていました。

本陣跡     F4

下諏訪宿本陣跡(岩波家)です。玄関の左手にある古い建物群ですが、かなり老朽化が進んでいます。先を急ぎたいので写真を撮って帰ろうとすると、中から出てきた老婦人に呼び止められ、「ここまで来て帰らないで、中も見てください」としきりに勧めます。何だか咎められたような気がして、料金400円を支払って中も見学しました。さすが中山道随一といわれる池と石の庭園は見事でした。室内には昔の宿泊人の資料なども展示されていて、皇女和宮、加賀、彦根、越前、尾張、仙台などの藩主に混じって、宮本武蔵の名もありました。現在の本陣跡は岩波本家と分家に二分され、上段の間は隣の分家「かめや」内にあり見ることは出来ませんでした。岩波家は信州の守護職、小笠原氏の流れをくむ旧家で、現在の当主は28代目になるそうです。岩波本陣は下諏訪宿の貴重な遺構ですが、個人で維持していくのは大変だろうなと考えさせられました。