42.妻籠宿 (長野県木曽郡南木曽町)  JR中央本線南木曽駅より南木曽町営バスにて7分

 

 

 

妻籠宿1    F4

 

妻籠宿で最も有名な寺下地区です。すぐ左にもう一つ旧い石段があります。二つ一緒に描くと、階段が主役になってしまいそうで、敢えて一つだけにしました。妻籠は北の入口から旅籠の町並みが続きますが、とりわけ枡形(防衛上道路を屈曲させた箇所)から南の寺下地区に多くの町屋が復元され残っていました。

 

 

妻籠宿2     F4

 

これも寺下の町並みです。右に「あぶらや」、左前方に「上嵯峨屋」など典型的な旅籠建築が連なります。案内によると長野県が明治百年記念事業として、昭和43年から45年にかけて、寺下地区から解体復元工事を実施したそうです。寺下地区に江戸時代からの遺構が多く見られるのはそのためです。その後昭和51年、妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されます。今も地元住民が中心になり「売らない、貸さない、壊さない」の信条を守っているそうです。

 

妻籠宿・馬籠峠遠望  F6

 

妻籠城址から眼下に妻籠宿、右上鞍部が馬籠峠、峠を超えると馬籠宿です。妻籠城址からの展望が良いことを以前何かで読んだことがあり、一度訪ねてみたかったのです。妻籠から約1kmのゆるやかな上り道、さらに城山下から10分ほど登ります。どうやらここまでくる観光客は少ないようです。城跡とはいえ頂上はさほど広くなく、小屋と石碑などがあるだけ。北側は高い樹木に遮られこの時期展望はありませんが、南側はご覧のようなパノラマ風景でした。周りの山々は一面の紅葉に覆われ、とりわけ城址公園の木々の紅葉は見事でした。数日前から寒波が到来、生憎この日は朝から曇り空で、厚着をしてきたのに寒いくらいでした。妻籠城は典型的な山城で、何時誰によって築かれたか定かではないそうです。木曽川と蘭川の合流する崖上に位置し、中山道を固めるには格好の地形にあるなと思いました。

 

 

大妻籠1    F4

 

妻籠から馬籠峠へ向かう途中にある大妻籠です。宿場と宿場の中間にある「間(あい)の宿」です。どうして大妻籠と呼ばれるようになったのかは分りませんが非常に小さい宿場です。昔は牛馬宿として賑わったようです。ウダツを揚げた出桁の旅籠建築が3軒並んでいました。現在も旅館を営んでいるそうです。妻籠宿は大勢の観光客で朝から混雑していましたが、ここまで来る人は殆どいないので大変静かでした。

 

 

 

 

大妻籠2    21X38cm

 

大妻籠の旅館つたむらやの正面玄関です。大戸に障子のくぐり戸が付いています。大きい方は馬や大きな荷物を入れるため、小さい方は人が通るためでしょう。

43.馬籠宿 (岐阜県中津川市)  JR中央本線中津川駅より北恵那交通バス25分

 

 

馬籠宿1     F4

 

馬籠宿の西のはずれにある車屋坂の枡形です。馬籠は尾根筋に開けた宿場です。長久保宿の竪町も同じような急坂でしたが、坂下の横町は平らな道でした。馬籠は宿場全体が坂道です。しかも道路が湾曲しているため町並みに変化がありました。早くから観光地として脚光を浴びたため建物や町並みの修景が進み、旧い建造物は少ないようです。馬込は島崎藤村の生誕地としても有名ですが、先年中津川市と合併し、長野県から岐阜県になりました。長野県民は信州の馬籠、藤村との想いから合併には賛否両論があったそうです。この日は中津川から馬籠まで路線バスで行きましたが、地理的にも経済的にも中津川圏だなとの印象でした。やむを得ない選択だったのでしょう。

 

 

馬籠宿2     F4

 

島崎藤村記念館の構内にある旧本陣の隠居所跡です。本陣の建物のうち現存するのはこの隠居所だけでした。藤村の祖父母が住んでいたそうです。藤村は幼少時に隠居所の2階の部屋で、国学者であった父親から教えを受けたそうです。このアングルでは見えませんが、隠居所は昔ながらの板葺石置屋根でした。入口には滑車式の釣瓶のある古井戸がありました。

 

 

 

馬籠宿3     F4

 

馬籠から南西の荒町集落を見た景色です。馬籠宿を出てから中山道は荒町を経て、木曽山脈に連なる恵那山系の山裾を落合宿に向かいます。荒町を過ぎ新茶屋あたりから美濃路です。周りの景観は木曽路の険しさがなくなり穏やかです。木曽谷では見られなかった田畑も広がっていました。