木曽路

 

 贄川宿から馬籠宿までの11宿が木曽路です。信濃路と木曽路を何時の時代からこのように分けたのかは分りません。資料によると江戸時代初めには木曽が尾張藩領になり、贄川宿から南を尾張藩が、本山宿から北を松本藩が管理していたそうです。現在本山宿の南、桜沢に「是より南 木曽路」と書かれた石碑がありますが、これは後年建てられたものだそうです。昔は中山道を木曽路と言ったそうですから、今も昔も中山道の核心であることに変りはありません。

 信濃路と木曽路は同じ長野県にありながら、地形的にも風土的にも特色の異なる街道でした。信濃路は総じて穏やかな高原の道であり、木曽路は往時は険しかったであろう山中の道です。

 「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」島崎藤村の「夜明け前」の書き出しの一節です。木曽路の地形的な特質を余すところなく表現しています。

 木曽路は木曽山脈と飛騨山脈に挟まれた深い谷と山裾を這う道です。贄川宿、奈良井宿は信濃川の支流奈良井川沿いに出来た宿場ですが、鳥居峠を越えて薮原宿から三留野宿までは、木曽川左岸の狭い平地や傾斜地に開かれた宿場です。特に東西の山が迫る福島宿、上松宿、須原宿あたりは、太田水穂が歌にも詠んだ文字通りの「谷底の町」でした。

 しかし、旅人に恐れられた「木曽の桟」も、今は鉄道や自動車道が出来、僅かに石垣などの遺構が残るだけでした。

 奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿など今も旧街道の面影を色濃く残す宿場がありました。その一方で度重なる大火により宿場遺構を失い、今では訪れる人もいない静かな宿場もありました。

 その昔、中山道は東海道よりも距離が長かったにもかかわらず、中山道を行く旅人が多かったそうです。天候の悪化で川止めになる大河が少なかったためとされていますが、中山道には何よりも美しい木曽路の風光の魅力もあったからではないかと思われます。