中山道69次宿場巡り

(2010年Ⅲ期)

 

10.10.13(水) 長久保宿、和田宿

 

 今回は信濃路で残していた追分、小田井、長久保、和田の4宿場を巡る。これらの宿場は、次に上田のMさんと会う時に一緒に行こうと敢えて残しておいた。前夜はMさん宅に泊めていただいて、同行したOさんと一緒に、M夫人の心尽くしの手料理を肴に夜遅くまで歓談した。久しぶりにへぼ碁も打った。

 朝食のあと、Mさんの車で長久保、和田へ向かう。長久保宿と和田宿へはJR上田駅前から長和町営バスの便があるが、1日に数本しかなく、長久保まで約1時間、和田へは長久保でバスを乗り換え、さらに20分余りかかる。おそらく中山道では公共交通が最も不便な宿場であろう。長久保は国道から離れているので、道を迷わないか心配であったがすぐに分かった。

 竪町と横町の交差点に木造3階建ての旅館濱田屋があった。交差点の近くの公共施設用駐車場に許可を得て車を置き、3人で先ず竪町を東へ歩く。かなり急な坂道である。これまでに歩いた宿場では最も急勾配かも知れない。道の両側は階段状の石垣が連なり、その上に民家が建っている。僅かではあるが、平入り出桁の古民家も残っていた。中でも本うだつの釜鳴屋(竹内家)が目を引いた。大屋根を両側から挟むように巨大な白漆喰壁の本うだつが建ち上がっている。これまでの宿場では隣家との境に、2階の軒下に「軒うだつ(袖うだつ)」を立てた家が多かった。案内によると釜鳴屋は昭和初期まで酒蔵を営んでいたそうだ。

 竪町の中ほどにある長久保宿歴史資料館(一福処濱屋)を見学。案内板によると明治の初めに建てられた旅籠であるが、先年、地域住民や旅人の休憩所として改修したとのこと。この日も5、6人の老人が集まって休憩していた。他にも民家の軒下に荷車を置いたりして、さりげなく宿場の風情を演出している。坂上の道路が大きくカーブしているあたりまで、旧い建物が見られたがその先は新しい建物が多い。坂上からの眺めも良かった。

 横町には旧い建物が少なく、袖ウダツのある出桁造りの旅籠風の建物が1軒目に付いただけである。

釜鳴屋
釜鳴屋
坂上からの眺め
坂上からの眺め
本陣前の町並み
本陣前の町並み
横町の古民家
横町の古民家
坂上の町並み
坂上の町並み

 国道を南下して和田宿に向かう。途中、大門街道を分けるあたりに旧中山道が二つの橋を渡るところがあった。広重の「長久保宿」はこのあたりのようだ。距離的には長久保に近いが、ここはもう和田である。しかし、そこから和田宿まではかなり遠かった。途中で何度も道を聞きながら下町に到着。小さい橋を渡ったところから和田宿である。左に下問屋跡、右に旅籠かわちや跡、その隣にも旅籠跡?と平入り出桁、連子格子の美しい町屋が連なる。かわちや跡は「歴史の道資料館」として公開されている。かわちやの裏に黒曜石資料館もあったが、時間的な都合で見学出来なかった。太古の時代から和田峠周辺でヤジリなど石器の材料となる優良な黒曜石が採れたそうだ。

 中山道をさらに南に進むと道路の左に本陣跡長井家があった。昔ながらの板葺き石置き屋根の大きな家である。入場料を払って屋内を見学。案内係に展示資料などの説明を聞いた。和田宿の歴史ではやはり江戸末期の皇女和宮の宿泊が、一番の大事件だったそうだ。和宮一行を迎える8ヶ月前に大火で宿場の殆どを焼失したのだから無理も無い。一度は幕府に辞退を申し出たが認められず、幕府から拝借金を得て、村を挙げての突貫工事により再建したそうだ。これまで疑問に思っていた和宮降嫁時の大行列3万3千人の宿泊場所を聞いてみた。和宮が和田宿(28次)に着いた時には、行列の先頭はすでに碓氷峠を越えて坂本宿(17次)に到達しており、後続の部隊も多いので、先頭から最後尾まで、想像を絶する長い行列であったことは確かだ。各宿場も通常の宿泊施設だけでは間に合わず、近郊の農家などに「助郷」を頼み、下っ端の者は軒下や納屋まで利用したそうだ。和宮の一行が過ぎるまでは一般の旅人は泊まれないだろうから、慶事ながら大変な迷惑でもあったのではないかと考えてしまう。

大門川・依田川合流点
大門川・依田川合流点
本陣跡
本陣跡
和田宿町並み1
和田宿町並み1
上町の町並み
上町の町並み
和田宿町並み2
和田宿町並み2

 Mさん宅を出たのが遅かったこともあり、本陣跡の見学を終えたときには予定時間を大幅に過ぎていた。見学料には旅籠大黒屋や歴史の道資料館(かわちや)も含まれていたが、これらはパスし上町の町並みをざっと見てから和田宿を後にした。途中、長久保の道の駅に立ち寄り、木陰でMの奥さんが用意してくれたオニギリなど弁当をいただく。

 その後、上田に近い北国街道海野宿を見てから軽井沢追分の宿舎へ。今夜からMさんがメンバーのリゾートマンションに3人で2泊する予定。今回はMさんに何から何まで大変お世話になった。お蔭さまでOさんと一緒にミニ大名旅行が出来た。Mさん夫妻に多謝!

 なお海野宿は町並み保存の行き届いた宿場として有名だが、反面町並みが整いすぎて生活感に乏しい印象であった。時間があれば裏通りなども見たかったのだが。

海野宿町並み1
海野宿町並み1
海野宿町並み2
海野宿町並み2

10.10.14(木) 追分宿、小田井宿

 

 この日もMさんの車で宿舎を11時頃出発、先ず小田井宿へ。小田井宿へは西側から入った。道路の片側に用水路のある綺麗な町並みである。案内によると道路の中央にあった水路を昭和になってから南側に寄せたとのこと。

本陣(安川家)、問屋、旅籠など旧い建物が僅かではあるが残っている。非常に小さい宿場なので、ゆっくり歩いても往復に30分もかからないくらいだ。案内によると街道として栄えた江戸時代末期以前は小さい規模の伝馬宿であったそうだ。

 小田井宿は多くの姫君に好まれたことから「姫の宿」とも呼ばれていたらしい。和宮も小田井の本陣で昼食休みをとっている。多くの旅人は賑やかな追分宿に泊まったのだろう。小田井宿の旅籠には飯盛り女を置かなかったそうだがこれも一因と思われる。
正午前であったがほとんど人通りもなく非常に静かな町であった。

小田井宿町並み
小田井宿町並み
小田井宿本陣前
小田井宿本陣前

 追分に向かう途中、メルシャン美術館に立ち寄り、構内にあるワインの貯蔵倉庫?のツタの紅葉が美しかったので写真だけ撮らせてもらった。

 追分宿の西の入り口は、有名な分去れ(追分)である。中山道(左)と北国街道(右)の分岐点であり、追分の地名にもなった。中山道はここから西へ200mほど幹線道路と重なるため、車の通行が頻繁で写真を撮るのも怖いくらいであった。

 追分にも僅かだが街道の面影を残す遺構があった。旅籠を利用し店頭に色んな品物を並べた現金屋という骨董品店、その隣に旧脇本陣油屋旅館があった。堀辰雄など文人墨客に好まれた油屋は、今も中山道沿いの深い木立の中に落ち着いた佇まいを見せている。土蔵などもかなり旧い時代のものだが、道路側からは良いアングルがなかったのが残念である。現在の追分宿は非常に緑の豊かな街道であった。これまで訪ねたどの宿場よりも木立が多い。

 追分宿の東に、堀辰雄文学記念館があった。案内によると街道に面した門は旧本陣門を移設し、記念館は堀辰雄が追分に建てた自宅を移築したものである。ここも木立に囲まれて風情のある趣であるが、気に入ったアングルが見つけられなかった。

分去れ(追分)
分去れ(追分)
現金屋
現金屋
追分宿西側入口
追分宿西側入口
油屋旅館
油屋旅館
追分宿町並み
追分宿町並み
堀辰雄記念館(旧本陣門)
堀辰雄記念館(旧本陣門)

 追分宿と沓掛宿の中間に牛馬宿であった借宿(かりやど)がある。借宿、沓掛宿、軽井沢宿へは既に4月に来たので今回はパス。これで今回の個人的な目的であった信濃路4宿場を終えることが出来た。さほど興味もないであろう宿場巡りにつき合ってくれたOさん、Mさんに深く感謝したい。このあとは、明日まで浅間高原、軽井沢観光などなど。

10.11.16(火) 馬籠宿、中津川宿

 

 木曽路行きは11月7日~9日に計画していたが、急用と天気予報の悪化でやむなく1週間延期。13日(土)には元会社のハイキング会に参加し、久しぶりに長時間歩いて足腰がだるい。疲れは残っているが、本年の目標達成のため紅葉の木曽路へ。

 8:17大宮発あさま507号乗車、長野着9:45。篠ノ井線、中央線経由名古屋行き特急ワイドビューしなの8号に乗り継ぎ、中津川着12:06。(大宮から中津川へは東海道新幹線名古屋駅経由の便もある。時間的には余り違わないが、長野新幹線長野駅経由のほうが料金がずっと安い。) 中津川駅のコインロッカーに荷物を預け、12:40駅前発の北恵那交通バスに乗り馬籠へ。バスは途中落合宿も通るが、時間の都合で今回は落合宿をパス。馬籠着13:03。バス停は馬籠宿の西の入口にあった。バスを降りたあたりには既に観光客が多い。

  馬籠宿は急な尾根道の両側に開かれた宿場である。そのため石垣が多く、階段もある。西側入口から坂を上ると、左側に大きな水車のある階段坂が現れた。車屋坂の枡形である。西に傾いた明るい午後の日差しを浴びて、古い旅籠風の建物が美しい。道路も緩やかにカーブしており、木立の多い手入れの行き届いた町並みが続く。ウイークデーなのに人並みが途切れることがない。奈良井宿と違うのは、妻籠宿と同じく早くから町並みが整備され、観光地として有名になったためか、土産物屋や飲食店が多いことだ。

 馬籠は木曽路の最後の宿場であるが、今は岐阜県(美濃)の町である。平成17年、中津川市に併合され、長野県木曽郡山口村馬籠から岐阜県中津川市馬籠になった。馬籠が生んだ文豪島崎藤村は墓場の影で嘆いているのでは・・・。
 宿場の中ほどに島崎藤村記念館があった。旧本陣跡である。内部も見学したが、屋敷内に井戸や本陣の建物の一部が保存されている。展示棟には藤村文学に関する資料など多数展示されていた。

 宿場の東のはずれまでゆっくり歩いて往復した。道路も石畳が敷かれ、道端には随所に植え込みもあり、建物にも変化があって、絵になる景観なのにどこか生活感に乏しい。観光地化が進み過ぎたのだろう。所々に時代劇の装束に身をつつんだ人達が道路を歩いている。観光客の求めに応じて一緒に写真に納まったりしている。

 馬籠は小さな宿場で、宿場からさらに下った南側には田畑や山林の間に数軒ずつの集落が点在する丘陵地が開けていた。逆光ではあるが、非常に長閑な風景であった。

馬籠宿西の入口
馬籠宿西の入口
島崎藤村記念館
島崎藤村記念館
水車のある階段坂
水車のある階段坂
旧本陣隠居所跡
旧本陣隠居所跡
馬籠宿町並み1
馬籠宿町並み1
馬籠宿より荒町集落
馬籠宿より荒町集落

 馬籠から路線バスで中津川駅前に戻り、予約しておいたビジネスホテルにチェックイン。まだ明るかったので、ホテルから近い中津川宿を散策した。本町あたりまでは、庄屋跡など旧い建物は点在するが、単発で連なる町並みはない。秋のつるべ落としと言うが、山間部の日の暮れかたは都市部よりも早いように感じられる。あっという間に周りが薄暗くなったのでホテルに戻った。

中津川宿庄屋跡
中津川宿庄屋跡
中津川宿はざま酒造
中津川宿はざま酒造

10.11.17(水) 須原宿、野尻宿、三留野宿、妻籠宿

 

 ホテルで早めの朝食をとり、中津川駅8:09発の中央本線普通電車に乗り、南木曽駅着8:27。妻籠方面へのバスの始発は10:10なので、妻籠までタクシーで行くつもりであった。しかし、駅前に止まっていたタクシーは2台しかなく、2台とも予約客を待っていた。しかたなくタクシーが再び駅前に戻るのを待つことにした。タクシーを予約していた人達は、このような事情を承知していたのだろう。30分ほどして戻ったタクシーに乗り妻籠城址へ。妻籠宿へ先に行くことも考えたが、一番期待していたところなので、妻籠城址を先にした。タクシーを降り約10分の山道を登る。頂上は公園になっており休憩所や石碑などがある。広場の北側は高い樹木に囲まれ展望がない。周りの樹木は紅葉真っ盛りで大変美しい。南側には妻籠宿の町並みが眼下に見える。中山道の道筋は明確ではないが、遠くに見える山の鞍部は馬籠峠であろう。期待した通りの景色であったが、生憎の曇り空で家々の屋根に光がない。鉛筆デッサンをしながら雲の切れるのを待ったがさほど変化がない。寒くなったので諦めて下山した。

妻籠城址公園
妻籠城址公園
妻籠城址より妻籠宿
妻籠城址より妻籠宿

 妻籠宿への道をタクシーの運転手さんに聞いていたので迷うことはなかった。妻籠宿までは全体的に下り坂であり、城址を先にしたのは賢明であった。妻籠から約1kmの上り道はかなりきついはず。宿場までの間に点在する民家も旧い町屋造りである。妻籠宿の保存活動は宿場外にも及んでいるようだ。やがて道路の右側に高札場、その先左側に小さな水車小屋が見えた。このあたりからが妻籠宿である。宿場の入り口から、道路が湾曲しゆるやかな上り坂になっており、変化のある町並みを形成している。土産物店や飲食店が多いのは、早くから観光地として有名になったからであろう。奈良井宿は家々が全体的に黒々としていたが、妻籠宿は白壁の家も点在し、町並みに変化をつけている。

 宿場中ほどに、白壁の土蔵を両脇に置く、脇本陣奥谷があった。中も見たかったが先を急ぎたいのでパス。やがて道が三本に分かれる寺下の枡形が現れた。右の石段を下るのが旧道だ。階段を下りながら、左に曲がると旅籠松代屋前である。松代屋前にある二つの石段を上がると「いこまや」など旅籠群が連なる妻籠宿の核心部寺下の町並みである。案内によると、長野県は明治百年記念事業として昭和43年~45年、寺下地区から旅籠群の解体復元工事を実施したそうだ。(その後、昭和51年、重要伝統的建造物群保存地区に指定される。)寺下地区を抜けて宿場のはずれあたりまで歩いたが、家並みが途切れるあたりにも旧い民家があり、薪や車など生活道具もあって風情がある。

妻籠宿東の入口
妻籠宿東の入口
寺下の町並み1
寺下の町並み1
水車小屋
水車小屋
寺下の町並み2
寺下の町並み2
脇本陣奥谷
脇本陣奥谷
妻籠宿西のはずれ
妻籠宿西のはずれ

 宿場の南のはずれに近いバス停から、馬籠行きのバスに乗り大妻籠へ。バスは満員なのに大妻籠で下車したのは自分一人であった。妻籠は朝から大勢の観光客で賑わっていたが、ここまでくる観光客は少ないようだ。大妻籠はその名と違って、小じんまりとした集落であった。ウダツ出桁の旅籠が3軒並んで建っている。今も旅館を営んでいるそうだ。元は馬宿であった名残りであろうか、玄関の扉が非常に大きい。大きな扉に人が通る小さい障子戸が付けられている。

大妻籠宿まるや
大妻籠宿まるや
大妻籠宿つたむらや玄関
大妻籠宿つたむらや玄関
大妻籠宿旧道
大妻籠宿旧道

 次のバスで南木曽駅に戻り、駅から近い三留野宿を散策。三留野宿は数度の大火によりその都度宿場の大半を焼失したため、昔の面影は残っていない。本ウダツ出桁の商家(橋本屋)が1軒目にとまっただけであった。事前の資料調査でも分かっていたので、中山道を諦め三留野に残る近代化遺産「桃介橋」へ。福沢桃介が大正時代に木曽川電力開発のために造ったつり橋である。現在はトロッコレールを外し歩道として利用されている。対岸には桃介橋や木曽川を展望できる公園があり、公園の傍には福沢桃介記念館もあった。福沢桃介がパートナー川上貞奴と過ごした別荘跡である。意外に小さい建物だ。桃介・貞奴のロマンスには興味があったので内部も見学したかったが、生憎この日は休館日であった。桃介橋から一つ下流の橋を渡って南木曽駅に戻った。

桃介橋
桃介橋
福沢桃介記念館
福沢桃介記念館
本ウダツの建物
本ウダツの建物

 南木曽発の中央本線普通電車に乗り須原宿へ。須原駅で降りたのは自分一人だけ。須原駅は予想通り無人駅であった。須原宿といえば水舟と言われるくらい有名であるが、街道沿いに何箇所か木の水舟があった。大きな丸太をくりぬいて水槽にしたものだ。地元では「井戸」と呼ばれている。裏山から湧水を引いているそうだ。立派な屋根つきの水舟もある。宿場中ほどに、正岡子規の歌碑のある水舟もあった。石碑には「寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出つるほどの 空たにもなし 子規」とあった。今は鉄道も敷かれ、広い道路も出来たが、往時は深い木曽谷を一本の細道が這うだけの文字通りの「谷底の町」であったのだろう。

 須原には妻籠のような旧い旅籠の町並みは見られない。水舟の周囲の民家も新旧混在し、旧い民家も玄関や窓が新建材に変わっている。妻籠や馬籠のように建物を修復保存していないため、その分生活感が濃厚である。しかし、昨今の木曽路ブームに乗り遅れた感のある、どことなく鄙びた静謐な町であった。

 亀子誠さんの画集で見た「春の須原宿」の場所は何処だろうか。小高い場所から宿場の町並みを描いた絵である。期待していたが結局その場所は分からなかった。帰ってから地図などを確認し、須原宿より一段高い山腹を走る中央本線の線路に近い場所ではないかと気がついた。どこから線路まで上がれるのか分からないが、現地での時間が充分にあっただけに悔やまれる。次回木曽路を訪ねた時もう一度須原で下車することになりそうだ。

 須原駅に戻り、駅前に1軒だけ小さい店を構える大和屋で「桜の花漬」を買った。慶事の席などで出される桜湯である。駅前の一角に幸田露伴と須原宿という石碑があった。「桜の花漬」を書いた「風流仏」の抜粋が刻まれていた。往時は中山道一の景色を誇った須原宿は名作の舞台にもなっている。

須原宿の町並み
須原宿の町並み
水舟のある町並み
水舟のある町並み
水舟と幸田露伴の石碑
水舟と幸田露伴の石碑

 次の上り電車を待って野尻へ。野尻宿も度重なる火災に見舞われ、特に明治27年(1894)の大火で宿場の大半を失ったそうだ。脇本陣跡(木戸家)も建て替えられ、クリーニング屋になっていた。野尻宿は道が入り組んでいて旧街道が分かりにくい。裏通りや路地裏なども歩いてみたが、坂が多く道路も曲がりくねっている。昔は「野尻の七曲り」と呼ばれたそうだ。これも枡形の変形で宿場の防衛のためであろう。駅上の出桁の民家が連なるあたりに旧街道の面影を感じた。

 時間があったので、中央線の線路をくぐり木曽川の川岸まで下りてみた。下流にダムがあるのか川が溜池のようになっている。上流部にある赤い鉄橋が夕日に輝き美しい。帰りの時間が気になったが、鉄橋の下流にある橋を渡り、対岸からの景色を眺めた。

野尻宿の町並み1
野尻宿の町並み1
野尻宿の町並み2
野尻宿の町並み2
木曽川のダム湖
木曽川のダム湖

10.11.18(木) 福島宿(再訪)、上松宿(再訪)

 

 ホテルを8:20頃チェックアウト。ホテルの部屋は新しくはなかったが、ツインのシングルユースだったので若干広い。トイレがウオッシュレットでないのが難点だが、安いので贅沢は言えない。朝食も和洋ともまずまずの内容。中津川にはホテルが少ないので、落合宿~細久手宿の際にまた利用することになりそうだ。昨日頑張って妻籠、三留野、野尻、須原と4宿場を巡り、一応今回の予定を終えることが出来た。今日は紅葉の頃来たかった福島宿と上松宿を再び訪ねることにした。

 中津川8:50発の特急しなの3号に乗り木曽福島着9:24。駅のコインロッカーに荷物を預け、歩いて木曽川沿いの崖屋造りへ。8月に来たときは周囲の山々は緑一色だった。木曽川沿いの崖屋造りが良い季節は秋か冬だろうと想像していたからである。 妻籠より標高の高い木曽福島では、紅葉はすでに盛りを過ぎたようだ。このあたり、木曽川は北から南に流れている。朝日は木曽川左岸の崖屋造りの建物に遮られ、その影は対岸まで伸びている。8月にはあんなに蒼かった木曽川の川面が日陰になって暗い。対照的に右岸の川岸や山の紅葉が朝日に照らされ輝いている。両岸のコントラストが強すぎるので描くのは難しいだろうなと想像しながら何枚も写真を撮った。

 木曽川右岸の道を上流に辿って、前回行けなかった山村代官所跡に向かった。木曽川沿いの町並みを対岸から眺めてみたかったからでもある。代官所跡は門や塀など真新しい。平屋造りの代官所の建物は古いものだが絵にするのは難しそうだ。

 右岸沿いの道をさらに上流へ。向こう岸に紅葉に囲まれた福島関所跡が見えてきた。良い眺めだが日陰のため建物に光がない。通りには昔ながらの水場なども残されていた。関所下の橋を渡り中山道に戻った。橋上から見た木曽川上流の景色が美しかった。

 福島関所跡は、現在の中山道から一段高い場所にあるため、すぐ下を通る中山道の町並みや木曽川対岸の家並みが一望できる。夏に来たときは生い茂った樹木に隠れて見えなかった道と家並みが、半ば落葉した木の間から良く見える。

 関所跡よりもっと高い場所がないか探した。中央線の線路を越えた高台に学校が見えるが、そこまで行くにはちょっと時間が足りない。線路沿いに寺院の屋根が見えたので行ってみたが展望がない。非常に立派な仁王門を持つお寺であった。裏道や路地を抜け上の段の通りに出た。福島宿は昭和の大火で大半を焼失し、街道らしい町並みはここ上の段だけに残ったそうだ。

崖屋造り
崖屋造り
上の段の町並み
上の段の町並み
山村郡代官屋敷
山村郡代官屋敷
高台から見た木曽福島
高台から見た木曽福島
福島関方面
福島関方面
関所跡から見た中山道と木曽川
関所跡から見た中山道と木曽川

 このあと木曽福島駅に戻り上り電車で上松へ。上松宿へは8月にも来たが短時間だったので駅から近い上町と駅下の木曽川沿いにある木材工場地区を歩いただけであった。今回も木曽福島に戻る下り電車まで約1時間しかないが、前回行けなかった「木曽の桟」と「寝覚めの床」を見たかったのである。駅前に止まっていたタクシーの運転手さんに相談すると、「寝覚の床」へは駅から南へ歩いて15分ほどであるが、木曽川まで下るのに10分、上まで戻るのに15分は必要だと言う。年寄りならもっとかかるかも知れないとも言う。歩いて行けば「寝覚の床」だけでも往復1時間はかかることになる。往復をタクシーにしても「寝覚の床」を見るだけで精一杯、駅から北へ車で往復20分を要する「木曽の桟」へ行く時間はないらしい。しかし「寝覚の床」で下まで降りないで上の展望所から眺めるだけであれば両方とも行くことは可能らしい。木曽八景とも言われる「木曽の桟」、「寝覚めの床」である。折角来たのだからちょっとだけでも見たいではないか。話が決まり先ず木曽の桟へ。木曽川左岸を上流へ約10分、橋を渡ったところで車を止めここが「木曽の桟跡」だという。見ると向こう岸の道路下に僅かに石垣が見える。道路の一部が鉄柱で支えられ、川岸に旧い石垣が残っていた。昔は石垣や崖の上に支柱を設けその上に板を載せ、空中に張り出した木道が架けられていたそうだ。木曽川の増水時にも流されないためにはかなり高い場所に架けられていたに違いない。往時は旅人に恐れられた「木曽の桟」であるが、鉄道が通り、立派な道路も出来た、現在の景観から昔の姿を想像するのは難しい。(なお、「木曽の桟」は何箇所もあり、ここは「波計(はばかり)の桟」である。野尻宿と南木曽宿の間には最も険しいと言われた「羅天の桟」があった。それなりに峻険な景観を想像していたのに予想は見事に外れてしまった。しかし木曽川両岸や山々の紅葉が美しかった。

木曽の桟跡
木曽の桟跡
寝覚の床
寝覚の床
寝覚の床の下流部
寝覚の床の下流部

 寝覚地区に残る旧旅籠跡にも立ち寄ってみたかったがタクシーを待たせているので断念。駅前に戻り、電車の発車時間まで15分くらいあったので、駅周辺を歩いてみたが木曽木材の貯木場はなかった。タクシーの運転手さんも知らないのは、今はもうなくなったのかも知れない。(その後Netで調べたら、寝覚の床のさらに下流に出来た新しい貯木場に移ったそうだ。)

 予定通り次の下り電車で木曽福島に戻った。車窓から眺める全山紅葉の木曽谷は本当に美しい。木曽福島で特急しなの、長野で新幹線に乗り継ぎ帰路についた。次は来年、早春の頃また来たいなと考えながら車窓をよぎる山や町を眺めた。

 紅葉の木曽路は期待以上であった。しかし、今回は反省点の多い旅でもあった。須原宿で行きたかった町並みを見下ろす場所が分からなかったこと。再訪した木曽福島では時間が早すぎて崖屋造りや木曽川の流れ、関所跡が日陰であったことなど。事前の計画に不備があった。最後に上松宿にも再訪したが短時間だったので、今回も期待した成果は得られなかった。8月には福島駅でコインロッカーに荷物を忘れるというポカをしでかし予定が狂ったため、急遽時間つなぎに訪ねた上松宿であった。考えてみれば上松宿へはきちんと計画したうえで行っていないのだ。木曽路の中では宿場内よりも宿場の外に見所の多い上松宿である。上松宿と須原宿へは何れまた訪ねることになりそうだ。