中山道69次宿場巡り

(2011年Ⅲ期)

11.09.25(日) 赤坂宿、垂井宿

 

 9月上旬、大腸がんの術後2年目の検査があり、検査が終わったら美濃路・近江路へ行く予定であった。しかし、大腸の内視鏡検査で小さいポリープが2個見つかり切除したため、1週間の激しい運動や旅行などが禁止になった。そのうち台風が接近して天気も悪くなり、美濃路行きを大幅に延期した。台風一過、天候の回復を待って計画実行。

 日曜日なのでラッシュアワーもなく、東京駅9:03発の新幹線で名古屋駅着11:10。すぐ東海道本線に乗り換え大垣着11:46。駅のコインロッカーに荷物を預け、先ず名阪近鉄バス乗り場に行き、赤坂方面行きのバスの時刻を確認したが少し前に出たばかり。東海道本線赤坂線も次の電車まで40分ほど待たなければならない。時間が惜しいのでタクシーを利用。宿場の東のはずれにある赤坂湊跡でタクシーを降りた。かつて杭瀬川の河港のあった所である。現在は港跡を復元し、河灯台であった大きな常夜灯が橋の袂にあった。白い洋風の建物(旧警察屯所)もありミニ公園になっている。赤坂宿は石灰岩の産地「金生山」に隣接しており、採掘した石灰岩の運搬のため、江戸時代から杭瀬川の河港として栄えたそうだ。

 街道沿いには旧い民家が点在するが連なる町並みはない。宿場の中心部である「四ッ辻」に大きな土蔵造りの商家があった。旧脇本陣跡である。脇本陣の横の通り(中山道からJR美濃赤坂駅への細い道)の両側に土蔵など旧い建物が並んでいた。

 当時、岐阜城の御殿を移築したという御茶屋屋敷跡へも行ってみたが、門と土塁などがあるだけ、建物は残っていなかった。今はボタン園になっているらしい。赤坂宿は、皇女和宮が江戸下向の際、宿場内の美観を繕うため、街道側の見える部分だけ二階屋にしたという「嫁入り普請」の跡も見たかったが、残念ながら確認できなかった。 

赤坂港跡の常夜灯
赤坂港跡の常夜灯
旧脇本陣跡
旧脇本陣跡
脇本陣横の通り
脇本陣横の通り

御茶屋屋敷跡      
御茶屋屋敷跡      

 赤坂港跡に戻り、次のバスでJR大垣駅へ。東海道本線で垂井へ移動。JR垂井駅にはコインロッカーがないため、リュックを背負っての宿場歩きとなった。

 垂井宿はJR垂井駅から駅前道路を直進して500m位であろうか。街道沿いには古い建物も点在するが、宿場の面影は殆ど残っていない。旧旅籠屋丸亀屋を気づかずに通り過ぎたのか確認できなかった。宿場中ほどに南宮大社の鳥居があり、鳥居前の交差点に黒板塀の倉庫のような建物があった。白い部分が少ない黒々とした建物である。酒蔵のようでもあるが、表側にはそれらしい店がない。結局分からずじまいであるが、垂井宿で絵になるところはこの土蔵造りの建物だけであった。

 西のはずれの本龍寺まで行ってみたが、魅力ある遺構や町並みはなかった。南宮大社に戻り、大ケヤキと「垂井の泉」を見る。大ケヤキと清水は今もあるが、ケヤキは根元から5mくらいのところで幹を切られ無残な形状を晒していた。「垂井の泉」は健在であった。地名にもなり、この水で漉いた美濃紙は垂井宿の名産でもあったそうだ。泉のまわりでは子供たちが大勢で遊んでいた。

 中山道と並行する南宮神社前の脇道を通り垂井駅に戻った。細い脇道に袖うだつのあるレトロな町並みがあった。


黒板塀の建物
黒板塀の建物
垂井の泉
垂井の泉
南宮神社前の脇道
南宮神社前の脇道

 東海道本線米原駅経由で彦根駅に移動し、予約しておいた駅前のビジネスホテルにチェックイン。岐阜で泊まったKホテルのチェーン店である。このホテルも新しく部屋は狭いが綺麗だ。ホテルの部屋で小休憩してから彦根城の見物がてら彦根の町を散策した。彦根城のお堀の南に旧い商店街があった。入り口だけしか見なかったが、書き割りのように修景された町並みだ。南側から城内に入ったが非常に広い。天守閣を見たかったのだが、天守閣まで行かないうちに日が暮れてしまった。諦めて東の城門から外に出て駅前に戻った。

11.09.26(月) 関ヶ原宿、今須宿、柏原宿、醒ヶ井宿、番場宿、鳥居本宿、高宮宿

 

 6時に起き、6時半から食べられるホテルの食事処へ。一番かと思ったらすでに数人来ていた。チェーン店なので朝食の内容は、岐阜のホテルと殆ど同じだ。食べ終わる頃にはほぼ満席になった。計画通りJR彦根駅発7:35の琵琶湖線の電車にのり、米原で東海道本線に乗り継ぎ関ヶ原着8:24。普段であれば起きる時間だ。今日は関ヶ原宿(58次)から順番に高宮宿(64次)まで行こうという強行スケジュールである。

 関が原駅前から宿場である。しかし、中山道は国道21号線となり車の往来が激しい。駅に近い八幡神社のスダジイは旧本陣跡にあり、県の天然記念物に指定された老木とのこと。立ち寄ってみたが、幹巻きされて養生中のようであった。中山道に戻り、車の喧騒の中を西へ。旧い民家が数軒連なる街道らしい一角があったが、道幅が広く、屋根の高さが揃っているなど町並みとしてはいまひとつ。

 やがて、街道沿いに「西の首塚」が現れた。想像していたよりも明るく小じんまりとしている。正面に大きなケヤキがあるが、太枝が切られ自然な樹形ではない。すでに紅葉が始まっているようだ。参道には石田三成などの旗印が何本か立ててある。西の首塚は関ヶ原合戦で討死した西軍の武将を葬ったとされているが定かではないらしい。神社やお寺を描くのは苦手なので、参らないで素通りすることが多いのだが、何故かここでは自然に手を合わせていた。関ヶ原で描けるのはここしかないと考えていたからかも知れない。

 西の首塚からほどなく、中山道は21号線と分かれる。旧道に入ると落ち着いた住宅街になり、街道というよりもお屋敷町のようである。不破の関所跡あたりからは下り道になり家も疎らになったので引き返すことにした。関所跡も復元された建物のようである。21号線に戻り、古戦場を一望できる場所がないか探したが、街道からは住宅やビルの影になって見えない。諦めて「東の首塚」を探す。東の首塚は駅の北側になるが、このあたりからも関ヶ原の合戦場は全く見ることができない。恐らく工場などの建物が建ち並んでしまったからであろう。東の首塚はすぐに分かった。西の首塚よりもやや広く、隣にある神社も大きい。東軍の武将を祭ったと言われのも頷ける。塚は大きな常緑樹で覆われ薄暗いくらいだ。

関ヶ原宿の町並み
関ヶ原宿の町並み
不破の関所跡
不破の関所跡
西の首塚
西の首塚
旧道の町並み
旧道の町並み

 関が原駅に戻り、駅前からタクシーで今須宿へ。今須は関が原駅と柏原駅のほぼ中間に位置する。以前はコミュニティーバスの便があったそうだが、今はそれも廃止されタクシーしかない。歩けば約4kmもある。今須宿の東の一里塚でタクシーを降りた。この辺りから西が旧宿場である。旧い建物は関ヶ原よりも多いが、袖ウダツのある民家をほとんど見かけないのは、建てられた年代が新しいのかもしれない。江戸時代からの遺構である問屋跡(山崎家)があった。ほぼ完全な形で残るという大きな建物である。今須は昔から雪深い土地であり、降雪期の難所として人馬の継ぎ立てのため、盛期には問屋場を7軒も置いたそうだ。ふと気がつくと問屋跡の写真を撮っているこちらの様子を二階の格子窓から三毛猫がじっと見ていた。

 宿場の西のはずれあたりまで行ってみたが、道路が湾曲し町並みに風情があった。再び問屋跡まで戻り、関が原駅前からタクシーを呼んで柏原宿へやってもらう(柏原にはタクシーはない)。先ほど乗った同じタクシーであった。旧道を通り、「寝物語の里」なども案内してもらった。今須は美濃路西端の宿場で、次の柏原から近江路である。美濃と近江の国境(現在の岐阜県と滋賀県の県境)が「寝物語の里」である。その昔、国境を挟んで美濃側に両国屋、近江側に近江屋の2軒の茶屋があり、僅かの隙間しかなかったため、壁越しに隣の人と寝物語ができたそうな(広重の今須宿にも2軒の茶屋と「寝物語由来」の看板や「江濃両国境」の杭が描かれている)。今は国境の石柱と「寝物語の里」の石碑だけがあった。

問屋跡
問屋跡
今須宿の町並み
今須宿の町並み
今須宿西の町並み
今須宿西の町並み

 柏原宿はJR柏原駅前から西なので、タクシーを宿場西のはずれあたりで降りた。あとは駅まで歩いて戻るだけである。柏原も道路がくねくねと曲がり、緩やかなアップダウンもあって町並みに風情がある。平入りと妻入りの建物が混じり変化もある。保存管理が良いのか街道沿いの民家は皆綺麗だ。

 柏原の名産であったモグサを商う店「亀屋左京」が1軒だけが残っていた。盛期には宿内に十数軒のモグサ屋があったそうだ。生憎この日は亀屋は休みで、広重も描いたという福助人形を見ることは叶わなかった。街道沿いに旧庄屋跡の標識のある民家があった。映画監督吉村公三郎の生家である。非常に質素な感じの平屋建てである。 

柏原宿町並み1
柏原宿町並み1
亀屋左京
亀屋左京
柏原宿の町並み2
柏原宿の町並み2
亀屋左京前の町並み
亀屋左京前の町並み

 柏原駅から東海道本線で醒ヶ井駅へ移動。まだ正午前であった。駅前から大正通り?を経て中山道へ向かう。途中にヴォーリズ設計の旧郵便局があった。年月を経て町並みと調和している。大正通りと中山道が地蔵川を挟んで斜めに交わる交差点に二つの橋があった。地蔵川を渡る大正通りの橋と中山道の橋が連続する珍しい場所である。二つの橋の傍に茅葺屋根(トタンカバー)の八百屋があった。二つの橋と八百屋を同時に描けないかアングルを探したが、二つの橋の間にある樹木が邪魔になる。

 中山道の橋を渡ってすぐ右側の地蔵川に「十王水」があった。池の中に常夜灯が立っている。醒井に何箇所かある湧水の一つである。水は澄み切っていて冷たそうだ。資料によると「古事記」に日本武尊が湧水で覚醒したとの記述があり、醒井の地名になったという。今も清水にしか生息できないバイカモやハリヨの群生地である。

 中山道を地蔵川沿いに進む。南側の川縁の民家の前には各戸に地蔵川を渡る小さい橋があり、川岸には水辺に下りる階段などもある。道路の北側には旧い商家なども連なり、他の宿場とは異なる独特の雰囲気がある。川岸の植栽も豊かで、夏場は涼しいだろうなと思った。

 宿場東の加茂神社の前に「居醒の清水」があった。地蔵川の水源である。この辺りが宿場のはずれのようだ。二つの橋に戻り、中山道をさらに西へ向かった。「西行水」という湧水池を見て、高速道路の下を西町界隈まで行ってみた。資料には旧い茶屋跡が残るとあったが確認できなかった。路地裏に僅かに宿場の面影を感じた。脇道を通って駅に戻り、次の電車を待って米原へ移動。醒ヶ井・米原間を往復する近江鉄道バスは番場を経由するが、日中の便数が2,3時間に1本と少ないため利用しにくい。

二つの橋
二つの橋
醒ヶ井宿の町並み2
醒ヶ井宿の町並み2
地蔵川
地蔵川
醒ヶ井宿西の町並み
醒ヶ井宿西の町並み
醒ヶ井宿の町並み1
醒ヶ井宿の町並み1

 米原駅でも番場行きのバスの時刻を確認したが次のバスは50分後であった。予定通りタクシーで番場へ。この時間帯では帰りもタクシーを呼ばなければならないため、西番場宿の西のはずれあたりでタクシーを降りた。資料によると西番場宿に旧い町並みが多く残るとあったからである。番場宿は小さい川を挟んで東番場宿と西番場宿に分かれており、それぞれの宿場は距離的には短いが、東西合わせるとかなり長い宿場である。西番場にはところどころに茅葺民家(殆どがトタンカバー)も混じり妻入りが多い。入母屋造りの民家が連なっている。壁や柱をベンガラ塗りした建物も多い。近江路に入ってから赤い壁が増えてきたようだ。

 街道からはずれるとすぐ農地で、田圃はすでに収穫を終え、根株から彦ばえが青々と伸びている。遠くには民家が並びその背後には小高い山もある。のどかな田園風景である。

 宿場の北に枡形(鍵の手)があり、その前後の町並みに街道らしい風情を感じた。中山道と米原道との分岐点に番場宿の石碑があり小公園になっている。そこで米原駅からタクシーを呼んだ。番場宿は米原港や長浜方面(北国街道)に通じる宿場として誕生したそうだ。長谷川伸の小説の主人公、番場の忠太郎が宿場の名を高めたという。

西番場宿町並み1
西番場宿町並み1
東番場宿の町並み
東番場宿の町並み
西番場宿町並み2
西番場宿町並み2
東番場と西番場の間の田園
東番場と西番場の間の田園

 米原駅で近江鉄道の電車を待って鳥居本宿へ。近江鉄道の電車に初めて乗ったが、始発駅なのに一両だけ。乗客も他に一人だけというローカル振りであった。JR琵琶湖線(東海道本線)は何時も混んでいるのに、近江鉄道の閑散としているのには正直驚いた。鳥居本駅の小さな駅舎は赤い屋根の洋風建築である。案内によると1931年、彦根ー米原間の鉄道開通時に建てられたそうだ。今は無人駅である。駅前の旧い建物との対称が面白い。

 鳥居本には旧い町並みが残るという資料もあり期待は大きかったが、ここも10年前とは様変わりしたようだ。旧い建物は点在するが続かない。鳥居本の名物であったという道中合羽の店も旧い商家跡に看板だけが残っていた。鳥居本宿はほぼ直線的な町並みだが、北のはずれに枡形があり、道路は大きく屈曲している。駅のほうから来ると道路の突き当たりに大きな商家がある。道中薬として人気のあった万能胃腸薬「赤玉神教丸本舗」(有川製薬)である。土蔵造りの豪壮な店構えから当時の繁栄振りが伺える。赤玉神教丸本舗の前後に旧い商家が数軒残っていた。鳥居本で旧街道の面影が残るのはこのあたりだけのようだ。

 街道沿いに「とりいもと宿場まつり」の赤い幟が沢山立っている。石田三成の旗印である「大一大万大吉」の軍旗も混じっている。佐和山城が近いのだろう。 

鳥居本駅
鳥居本駅
鳥居本宿町並み1
鳥居本宿町並み1
鳥居本宿町並み2
鳥居本宿町並み2
赤玉神教丸本舗
赤玉神教丸本舗

 鳥居本駅に戻り、彦根経由で高宮駅へ。高宮駅に着いたのは4時を過ぎていたがまだ陽は高く明るい。

高宮宿も駅から近い。街道沿いには袖ウダツのある商家が点在する。宿場中ほどの松本酒造の前後に旧い家が数軒連なり街道らしい風情がある。宿場の中央に多賀大社の鳥居があり、鳥居南の化粧川沿いに商家や土蔵が残るという。化粧川は高宮小学校の前を流れる川なので、すぐに分かるだろうと考えていたが大間違い。小学校の周りはT字路が多く、小学校に辿り着くまでに周りを一周してしまった。そのお蔭で旧い土蔵造りや茅葺屋根の民家のある脇道を見つけることが出来た。

 化粧川は予想に反してミゾのような細い水路であった。水路からバケツに水を汲んでいる人がいたので尋ねたら、やはり化粧川(五社川)だという。周りには黒い板壁の民家や白壁の土蔵が並んでいる。高宮は麻織物の機織りの町として栄えたそうだ。土蔵のある商家群は織物問屋跡であろうか。それにしても狭い地域なのに分かりにくいところである。化粧川も中山道のあたりは暗渠になっているのか川も通路も中山道からは見えないのだ。

 高宮は街道だけでなく裏道りにもレトロな雰囲気が色濃く残る町であった。中山道に戻り、東のはずれあたりまで歩いてから駅に戻った。

高宮宿町並み
高宮宿町並み
脇道の町並み
脇道の町並み
化粧川沿いの町並み
化粧川沿いの町並み

11.09.27(火) 愛知川宿、五個荘、武佐宿

 

 今日も早起き。昨日は1日で7宿場を巡る強行軍であった。比較的駅に近い宿場が多かったし、駅から遠いところはタクシーを利用した。今日は大宮に帰る日である。米原から夕刻の新幹線のキップを買ってあるが、出来ればもっと早く帰りたい。

今日の予定は愛知川、五個荘、武佐の三ヶ所である。愛知川宿、武佐宿はあまり期待できないため、宿場ではないが五個荘でゆっくり散策したい。

 6:45ホテルをチェックアウト(計画より1時間も早い)。JR彦根駅のコインロッカーに荷物を預け、近江鉄道で愛知川へ。中山道は愛知川駅から少し離れている。宿場へは北のはずれから入るつもりで、駅前から線路沿いに北へ進む。やがて西へ分ける斜め道を道なりに行けば中山道に合流する筈である。しかし、途中に中山道に似た道があり分からなってしまった。途中で会った人に聞くとやはり中山道はもっと先であった。小学校が近くにあるのか、交通整理の旗を持っているお年寄りである。大変親切な方で、本陣跡など史跡の場所を細かく教えてくれる。そのうち同じ旗を持った人が来て、ようやく解放されたが話好きなのだろう、親切な人もいるものだ。しかし、中山道に入ってからは新しい家ばかりで、街道の面影はない。やがて駅前通りとの交差点に道路を跨ぐ門があった。ここから愛知川宿である。ここまで大きく回り道をしたが何もなかった。時間的にもロスをしたようだ。門を過ぎしばらく行くと左手に土蔵造りの大きな屋敷があった。旧近江商人屋敷跡である。古い屋敷をそのまま利用した川魚料理の料亭「近江商人亭」であった。屋敷の左右は広い]空き地になっていて、この家だけが独立しており非常に目立つ存在だ。家の裏手にも回ってみたが、かなり広い。7,8棟の建物を組合わせたような複雑な形である。

 さらに南に進むと、右側に旧本陣跡の標識のあるレトロなビルがあった。シャッターが降りている。今は使われていないのであろう。このあたりからポツポツと古い民家が現れる。しかし連ならないため平凡な町並みである。

 ここまではほぼ直線的な街道である。前方の道路が右に曲がるあたりに大きな家が見えるので、ちょっと遠いがそこまで行って確かめてみることにした。スケッチを始めてから、遠くに大きな木や屋敷などを見ると、そこまで行ってみないと気がすまなくなった。近くにいってみたら何でもない景色だったということが多いのだが。遠くから見えた大きな家は竹平楼という料亭であった。旧旅籠屋跡(竹の子屋)である。その先も変化がないので愛知川駅へ引き返した。愛知川は五個荘、近江八幡、日野と並ぶ近江商人の輩出地であるが、街道沿いにその遺構を見たのは近江商人亭のみであった。

近江商人屋敷跡
近江商人屋敷跡
旧本陣跡に建つビル
旧本陣跡に建つビル
愛知川宿の町並み
愛知川宿の町並み

 愛知川駅から次の電車で五個荘駅(五箇荘駅が正しいが、紛らわしいため一般に使われている五個荘を用いた。以下同様。)へ移動。8時半頃五個荘駅に着いたが、降りたのは自分一人だけ。普段は8時半に起きる日も多いので信じられないが、すでに一仕事終えた気がする。五個荘駅は小さな無人駅であった。タクシーもいない。路線バスも五個荘駅前を通る便はないようだ。用意してきた地図を頼りに金堂まで歩くことにした。東近江市観光協会作成の観光案内地図である。実際の距離と地図の距離が異なるため、歩いているうちに今どこにいるのか分からなくなってしまう。時々2万5千分の1地図で現在地を確認しながら進むのだが、2万5千分の1地図には道路信号や目標物の記入がないため、度々立ち止まることになる。道路上には金堂の近くに行くまで標識もない。五個荘駅から徒歩で来る観光客を想定していないようだ。

 そのうち川を渡り、中山道らしい道に出たので南に進むと、道路の両側に茅葺屋根の家が数軒見えてきた。茅葺民家があることは知らなかったので幸運であった。右に分かれる道路の角に小さいお堂があり、お堂の前のミニ公園に「てんびんの里五個荘」の古地図を描いた案内板があった。金堂へは右の道を行けば良さそうだ。お堂の南の角の家も茅葺屋根である。入母屋造りのスソの部分は瓦屋根である。いわゆる伊香(いか)型民家であろうか? 

お堂前の旧中山道
お堂前の旧中山道
金堂への道
金堂への道
大城神社前の道
大城神社前の道

 中山道を離れ右の道を行くと、やがて右手にJAの看板が見えてくる。このあたりまで来ると観光協会の地図が詳しいので役に立つ。JAを右に見てすぐ次の道を左折し、五個荘小学校の南の道を右折すると大城神社の前に出る。神社前の道を直進すると金堂である。神社前から道幅が広くなるが、道路の南側には古い家が並ぶ。平入りと妻入りが混在する美しい町並みである。

 金堂地区に入ってすぐ、外村繁文学館があった。外村繁の生家である。外村繁は私小説の大家であり、題名は忘れたが若い頃読んだことがある。隠微な印象だけが記憶にある。外村繁はこんなお屋敷で育ったのだと思うと、昔読んだ小説の印象と重なって、なるほどと一人で納得した次第である。建物の中も公開されていたが、時間が惜しいので先を急ぐ。長い板塀が続く道の脇には清水が流れる水路があった。

 これだけ多くの屋敷が五個荘に現存することは驚きであった。外村宇兵衛邸、中江準五郎邸など最盛期より規模は縮小されているらしいが、非常に綺麗に保存されていた。五個荘にある近江商人屋敷群はみな瀟洒な日本家屋という印象であった。いわゆる豪壮な邸宅ではない。有り余る富を手にしたであろう近江商人の財に溺れない品格と節度を感じた。金堂地区のあきんど通りや花篭通りなど、どこを描いても絵になる町並みがあった。  

外村繁文学館
外村繁文学館
あきんど通り
あきんど通り
外村繁文学館前の町並み
外村繁文学館前の町並み
五個荘の町並み2
五個荘の町並み2
五個荘町並み1
五個荘町並み1

 金堂を見てから、タクシーで武佐宿へ移動する予定であった。その前に観光センターでトイレを借りた。「五個荘観光センター」と馬鹿でかい看板を遠くから見て、行ってみると小さな個人商店である。トイレを借りてからアイスクリームを食べていると、店の主人がこれから何処へ行くのかと尋ねる。タクシーで武佐へ行くつもりだと答えると、親切にもタクシーを呼んでくれるという。携帯電話を持っているし、タクシー会社の電話番号も調べてきたのでと言うと、タクシー会社はどこかと聞く。メモしてきた2社の社名を言うと、そこよりも○○が運転手が親切なので良いと言う。○○なら電話料もかからないのでと携帯電話を取り出した。そこまで言われて断る理由はないのでお願いすることにした。タクシー会社や運転手と何らかの関係があるのかも知れないがこちらが恐縮するほど親切だ。東京日本橋から京都三条大橋まで中山道を歩いているのだというと皆一様に感心するが、実際は宿場から宿場を観光しているだけなのだ。お礼に何か土産物でも買おうと物色しているうちにタクシーが来て結局何も買えなかった。タクシーの運転手さんも店の主人から呼ばれたためか愛想が良い。中山道に入ると色々と説明してくれる。石碑などがあるところは徐行してくれるが、こちらは絵になる景色を探しているので案内板の類はさほど興味がないのだが・・・。武佐宿が近くなり道路が湾曲しているあたりの町並みに風情があった。車を止めて貰ってそこから歩くことにした。武佐宿の南のはずれが近江鉄道武佐駅である。タクシーを降りたあたりには茅葺屋根の民家もあり街道の面影があった。

 しかし、そこから一直線の平凡な道を延々と1時間ほど歩くことになるのだ。途中には神社や寺、古い民家がポツポツと点在するものの連なる町並みはない。好もしい田舎道を歩いているようで気持ちは良いが、天気が良すぎて暑いくらいであった。道路の東側に広い田園が開けているところもあったが、兎に角直線道路をひたすら歩いた。ようやく脇本陣跡の冠木門が現れたので宿場には着いたようだ。しかし脇本陣跡の建物は新しい武佐町会館であった。旧八幡警察署跡の洋館や古い商家も残っていたが新しいモルタル建築が割り込んでいたりして、なかなか絵になる町並みは現れない。旧旅籠屋が現在も旅館を営んでいるという中村屋に期待していたが、空地に看板だけが立っていた。帰ってから調べたら、1年前に失火で全焼したらしい。

 武佐駅がもうすぐというところで中山道が道路工事中のため、脇道を迂回しなければならず宿場の一部を歩くことが出来なかった。僅かだが脇道にレトロな町並みがあった。今日は愛知川、五個荘、武佐の3ヶ所だけなのに随分歩いたような気がする。

武佐宿への道
武佐宿への道
看板だけが焼け残った中村屋
看板だけが焼け残った中村屋
武佐宿脇道の町並み
武佐宿脇道の町並み

 近江八幡行きの電車を待って帰路に着いた。JR彦根駅で米原からの新幹線のキップを変更し、米原発14:54のひかり520号に乗った。小田原で下車し、湘南新宿ラインに乗り換え、大宮には18:51に着いた。ウイークデーなので東京駅のラッシュアワーを避けるためである。大宮到着は若干遅くなるが、小田原からグリーン車を利用すれば都内で混んできても楽だからである。