中山道69次宿場巡り
(2011年Ⅱ期)
梅雨の晴れ間に美濃路へ行けないかと毎日週間天気予報をチェックしていた。13日~15日の3日間だけ岐阜地方の天気予報が良い。今回予定しているのは御嵩宿~美江寺宿、明治の濃尾地震や先の戦災の影響が大きく、目ぼしい遺構は殆ど残っていないところばかりである。当初の計画では3泊4日の予定であったが2泊3日に変更した。宿場町にはあまり期待できないので、鵜沼宿に近い犬山城下町と岐阜城下の川原町も計画に加えた。3日で9カ所を巡るという強行軍である。
10:03東京発ひかり467号にて名古屋着12:10、名古屋駅で名鉄犬山線に乗り換え犬山着12:48。まず犬山駅のコインロッカーに荷物を預けた。何時も荷物をどうするかは大問題なのだ。同じホテルに連泊する時はこの問題も軽減されるが、今回のようにホテルを日によって変える時は、荷物をどこに預けるか、コインロッカーの有無など予めNetで確認しておく必要がある。前回からキャリーバッグを止めリュックサックにした。坂道や階段など、キャリーバッグよりも背中に背負えるリュックのほうが使い勝手が良いからである。
犬山には国宝犬山城だけでなく、旧城下町には町屋街も残っている。犬山駅から城山までの道路は整然としていた。城下町は防衛のためT字路が多いが犬山は十字路も多い。犬山駅から町屋街の本町通りまで歩いて10分くらい。本町通りには切妻平入りを主体に、切妻妻入りや入母屋の商家も見られ家並みに変化がある。新装した建物なども混在し、土産物屋や飲食店などが多いためか雑然とした印象である。宿場町とは違いどことなく華やいだ雰囲気もある。名古屋から名鉄に乗って約30分という地の利もあり早くから観光地として賑わってきたのであろう。それでも東京に近い川越の混雑ぶりと比べればまだ静かなほうである。
本町通りを北に進むと約10分で犬山城である。犬山城は織田、豊臣、徳川三代を壊されずに残った名城である。数年前まで城主成瀬家が個人所有していたが、現在は財団法人の所有になっているそうだ。本町通りから稲荷神社の横の道を何度も曲がりながら本丸門まで登った。片側半分が階段、もう片側は坂道になった石畳の道である。ところどころ野面積みの高い石垣があり、樹木に囲まれて薄暗い。現在は本丸門が天守閣への唯一の出入口であるが、昔は本丸門までの間に外敵を欺くための門が幾つもあったそうだ。
天守閣は木曽川左岸の崖上にあり、往時は難攻不落と言われたそうだ。木曽川の対岸から天守閣は非常に良く見えるが、南側の本町通りからは櫓も天守閣も見ることは出来ない。本丸門を入らないと天守閣を望むことは叶わないのだ。これも防衛手段の一つと言われている。本丸門を入るには入場料(500円)が必要であった。
天守閣へは靴を脱いで上がることになるが、各階の階段が急勾配のうえ狭い。磨り減った木の階段は滑りやすく上り下りが怖い。各階にある展示物などを見学しながら、窓から見える木曽川の眺めなどカメラに納めた。最上階には木製の回廊があった。回廊に出て一回りすれば、木曽川や鵜沼市街など360度の景観を一望できる。下から上がってきた人たちは次々と一列になって回廊を周っている。係員が欄干に寄りかからないようにと繰り返し注意している。しかし、高い所が苦手な身では、足がすくんで回廊に出られない。部屋の中からへっぴり腰になって北側だけの写真を撮るのがやっとであった。情けないやら恥ずかしいやら。早々に天守閣から地上に降り、ホッとしながら城内のベンチで遅い弁当を食べた。
犬山駅に戻り、名鉄新鵜沼駅、JR高山本線鵜沼駅を経由してJR美濃太田駅へ移動。予約しておいたホテルにチェックイン。家内がNetで探してくれたCホテルである。さほど新しくはないが駅の真ん前、くちこみ評価の高いビジネスホテルらしい。
ホテルの部屋でしばらく休憩してから、今日の予定である太田宿へ。駅前通りを南に直進して約10分、中山道と交差するあたりから西側が太田宿である。往時は「木曽の桟太田の渡し碓氷峠がなくばよい」と馬子唄で謡われた難所を控え賑わったらしい。しかし今は車の往来も少なく、人通りもなくひっそりとしている。旧い建物は少ないものの、宿場西のはずれにある枡形の少し手前に脇本陣があった。現存する脇本陣として全国一の規模といわれる林家である。本ウダツをあげた見事な建物だ。資料によると主屋は明和6年(1769)に建築されたとあるが、保存管理が良いのか今から250年も前の建物とは思えない(国の重要文化財)。なお本陣は脇本陣の斜向かいに門だけが残っていた。
脇本陣の斜向かいにある御代桜酒造横の通りに酒蔵を結ぶ空中回廊があり、両側の蔵の白い漆喰壁と黒い板壁のコントラストが美しい。個人的な好みではあるが、この路地が今日一番の収穫かもしれない。
宿場を西のはずれまで散策したあと、木曽川の堤防に上がった。昔の渡船場はどのあたりであろうか?資料によると青い太田橋の少し下流に「太田の渡し」があったとある。なお木曽川の左岸と右岸で渡し場の名称が異なり、「太田の渡し」は右岸の名称で、左岸(対岸)は「今渡の渡し」と呼ばれていた。「太田の渡し」は昔から流れが速く水深も深かったそうだ。川幅は平常時で約155m、時代によって流路や流速が大きく変化したため渡し場も移動したそうだ。
11.06.14(火) 御嵩宿、伏見宿、鵜沼宿、加納宿、川原町
昼間自動販売機で買った冷えたお茶を沢山飲んだためか昨夜は眠りが浅く夜中に何度も起きた。それでなくとも新しいベッドや布団では何故か良く寝むれない。仕方なく6時前に起き出発の準備をし、ホテル1Fのレストランが開くのを待って朝食。ホテルとは別経営の店らしいが、予約しておいた和食(1050円)は味・量とも予想以上。少ない経験だがこれまで利用したビジネスホテルの朝食の中ではトップクラスであろうか。部屋は清潔だがこれといった特徴はないし、Netでホテルの評判が良いのはこの朝食にあるのかもしれないと思ったほどである。
予定より1時間ほど早い7時40分、ホテルをチェックアウト。美濃太田駅のコインロッカーに荷物を預け、JR太多線に乗り可児へ。可児駅で名鉄広見線に乗り換え御嵩へ。御嵩駅前から東が御嵩宿である。駅前が枡形になっており、角に可児大寺願興寺があった。宿場中ほどに脇本陣跡「中山道みたけ館」があったが、この日は生憎休館日。隣に旧旅籠竹屋跡があり、このあたりが御嵩宿の中心部のようだ。資料には「本陣から東に連子格子の家並み良く残る」とあり、大いに期待して来たのだが・・・。10年間で街の状況は変わってしまったようだ。旧い町屋は点在するが続かない。近年、街道沿いに灯篭を置いたり、ようやく町並みの保存にも力を入れ始めたそうである。次の上り電車を待って明智駅へ移動。
伏見宿は名鉄広見線明智駅から北へ歩いて約10分、中山道との交差点辺りから西が旧宿場である。明智駅前を流れる可児川を渡ると、東側には田植えを終えたばかりの田園があった。このあたりから中山道に向かって緩やかな上り坂である。伏見宿は丘陵地に開けた街のようだ。明智駅から伏見宿へ向かう道は、両側に旧い民家が点在し、時折り車が通るほかは人影もない静かな田舎道であった。
御嵩宿、伏見宿と空振りに終わり、予定より早く美濃太田駅に戻った。駅のコインロッカーから荷物を出し、JR高山本線で鵜沼へ移動。鵜沼宿はJR鵜沼駅から徒歩10分ほど。JR鵜沼駅に隣接する名鉄新鵜沼駅から名鉄各務原線で鵜沼宿駅まで行けば、そこからは徒歩約5分である。これらの駅には予め調べたところどこにもコインロッカーがない。この日は朝から天気が良く非常に暑い。ちょっと迷ったが、荷物を背負って歩く距離を考え、名鉄で鵜沼宿駅へ移動することにした。
駅から鵜沼宿へは緩やかな上り坂である。鵜沼宿も周りより高い場所にあるようだ。木曽川の氾濫から宿場を守るためであろう。ここも濃尾地震の被害が大きく、現存する遺構は少ない。しかし、地元(各務原市)は保存活動に熱心で、旧い建物には玄関に文化財の立派なプレートが付けられている。宿場東の脇本陣も復元したばかりで真新しい。旧旅籠絹屋跡は資料館となり、係員も非常に熱心であった。しかし、旧町屋は大安寺川の西側と、酒造工場の西側に僅かに数軒残るだけであった。この日は運悪く宿場全体が道路工事中で、路上に赤い標識を並べ交通規制をしいていた。トラックやシャベルカーも作業中で、写真を撮ることもままならなかった。
大安寺橋の袂にある喫茶店でしばらく休憩してから、中山道をさらに東へ進み新鵜沼駅へ向かった。喫茶店でここから鵜沼宿駅と新鵜沼駅とどっちが近いか尋ねたところ、どちらへもほぼ等距離であるが、岐阜へ行くには新鵜沼駅のほうが便が多いと聞いたからである。どうやら時間的にも新鵜沼駅(JR鵜沼駅)から宿場まで歩き、帰りは宿場から鵜沼宿駅へ向かうほうが良かったようだ。
新鵜沼駅から再び名鉄各務原線に乗り岐阜へ。2時過ぎには名鉄岐阜駅に着いた。ホテルにはチェックイン4時と連絡していたが、荷物だけでも預けておこうとホテルへ。ここも家内がNetで調べてくれたKホテルである。フロントでちょっと早く着いたがというとチェックインOK。新しいホテルなのか部屋も綺麗だ。シャワーを浴びてからJR岐阜駅南口から東の加納宿へ。
加納宿は戦時下に空襲で宿場の大半を焼失、社寺以外の遺構は殆ど残っていなかった。戦災から免れたという加納新町とそこから近い名鉄踏切のあたりに袖ウダツのある民家が僅かに残っていた。しかし、大宮宿や浦和宿の現状と比べれば、加納宿はJR岐阜駅前という立地にもかかわらず、まだこれだけ残っているというべきかも知れない。名鉄加納駅のあたりまで歩いてみたが、旧街道の面影は殆どなかった。
JR岐阜駅に戻り、駅前からバスで長良橋へ。長良橋の南の橋詰でバスを降り、道路下の川岸に下りてみると、忙しそうに出船の準備をしている数艘の鵜飼観覧船があった。運河(河港?)には十数艘の鵜飼観覧船が並んで係留されている。
長良川の左岸、鵜飼観覧船乗り場から西側一帯が川原町である。川原町は湊町、玉井町、元浜町の三つの町の総称である。資料によると古くから長良川の河港があり、斉藤道三・織田信長の時代から市場が開かれ、紙問屋や材木商などが軒を連ねていたそうだ。川原町には美濃地震と戦災を免れた旧い町屋が今も残っている。現在は長良川の鵜飼観光が盛んで、川原町通りの入口には観光ホテルや鮎料理屋などが並んでいた。夕刻川原町に着いたが、通りの入口には客待ちの鵜飼観覧船の船頭?がそれぞれ思い思いの格好で大勢路上にたむろしていた。通りの両側には旧商家の面影を残す連子格子の家並みがあった。どの建物も全体的に綺麗である。建てられた年代がそれほど古くないのかもしれない。格子戸など修復したばかりの家もある。岐阜市は観光資源として保存活動に力を入れているようだ。通りの中ほどにある後藤商店横の路地を降りてゆくと、珍しい杉皮壁の大きな蔵があった。路地の両側には黒い板壁やトタン壁の蔵造りが並んでいた。
川原町通りの西のはずれにある石橋を渡ると東材木町である。橋上から見ると城山(金華山)が頭上に聳え、山上には岐阜城の櫓?が見えた。東材木町と東隣の上茶屋町界隈も散策したが、こちらにも新旧混在するレトロな町並みがあった。やはり材木屋や紙屋が多い。一帯は岐阜城直下の城下町であるが、ゆっくり探索してみたい町であった。
再び長良橋から路線バスでJR岐阜駅前に戻り、駅前の居酒屋でにぎり寿司を食べホテルに帰った。
この日も早く目覚めた。一昨日はお茶を飲みすぎ、昨日はコーヒーが過ぎたようだ。今日はミネラルウォーターにしょう。ホテルの朝食タイムは6時半からだが、6時40分頃フロントに行くと30人くらい座れる朝食スペースはほぼ満員であった。和洋バイキングのセルフサービス。料理の内容は普通だが皿は学校給食のようなトレーが1枚だけ。ここも「朝食は無料」だから仕方ないか。しかし、このホテルに対する利用者の評価が高いのは何故だろう?部屋は綺麗だが設備は余計なものを一切取り払ってしまったように簡素である。枕やマットレスなどを工夫して「快眠」をコンセプトにしているが、昨晩はあまり眠れなかったので実のところよく分からない。予定より1時間も早い7時30分頃チェックアウトしたが、その時もフロントから見るとやはり朝食場は満員状態であった。これまで利用したビジネスホテルの中ではここが一番混んでいた。Netでの評判はまんざらウソではなさそうだ。
今日は河渡宿と美江寺宿を散策する予定である。美江寺へは、JR大垣駅から樽見鉄道で行くことも出来るが便数が少ない。一方河渡宿は岐阜駅前からのバス便しかない。いろいろ調べたところ、岐阜バス美江寺穂積線巣南庁舎行きが、河渡も美江寺も通ることが分かった。JR岐阜駅のコインロッカーに荷物を預け、駅前のバス乗場で美江寺行きのバスを待った。14番線まであるバス乗場の広いロータリーに次々とバスが入ってきて、並んで待っていた大勢の人を乗せ発車してゆく。バスが出た後にまた次のバスを待つ人の列が出来る。バス乗り場に集散する人々の流れるような動きに見とれながらバスを待った。やがて7番線に美江寺行きのバスが到着し、満員の客を乗せるとすぐ発車した。途中の市民病院前で大半の乗客が降りた。近くに学校もあるのか高校生も大勢降りた。間もなくバスは長良川を渡り河渡を通過した。今日は河渡には美江寺からの帰りに寄る予定である。美江寺に着くころには乗客は青い制服の女子高生と二人だけになった。美江寺で降りたのは一人だけ、女子高生は何処まで行くのだろうか。
バス停はその昔美江寺という大寺があったところ。今は小さな神社と観音堂があった。この日は宿内にある遺跡の清掃日なのか、大勢の男女が神社境内の掃除をしていた。街道沿いの祠などにも人が集まっていた。どこもお年寄りが多い。いわゆる勤労奉仕であろうか。資料によると江戸末期の美江寺宿は本陣1、旅籠11軒の小さい宿場であった。濃尾地震の震源に近かったため、旅籠布屋1軒を残し全壊したそうだ。そのため宿内の遺構は少ないが、こうして皆で守っているのであろう。よそ者が勝手に押しかけて見どころが少ないなどと文句を言うのは失礼千万かも知れない。盛期には24坊を数えたという美江寺は、斉藤道三が御利益を独占したいがために本尊を岐阜に移し、その後廃寺となり地名だけが残ったという。
宿場の西のはずれを流れる犀川の両岸は一面の柿畑であった。美江寺の特産は富有柿、富有柿の名称もここから出たそうだ。美江寺跡から西の街道には比較的新しい大きな屋敷が多かった。柿農家であろうか?
岐阜駅前行きのバスに乗り河渡に移動。往時は河渡宿に長良川の渡し場があった。「合渡(ごうど)の渡し」である。今朝バスで通った河渡橋の少し上流に渡船場があり、終戦頃まで続いていたという。なお河渡橋から1.3kmほど上流対岸にある鏡島弘法裏の「小紅の渡し」は現在も運営されており、県道なので料金は無料だとか。河渡宿も小さな宿場であったが、先の空襲で全戸を焼失、現存するのは戦後の建物だけである。宿場の名残は道端にあった「代官の祠」だけであろうか。祀られているのは江戸時代後期の代官・松下内匠である。度々の洪水に悩まされた河渡宿を、代官は3年の歳月をかけ5尺(1.5m)余り盛り土し、建物も建て替え、洪水に耐えられる宿場に作り直したそうだ。感謝した住民が後に松下神社を建てその功績を称えたとか。松下神社も戦火に見舞われ、今は小さな祠と顕彰碑の一部しか残っていない。宿場住民が神社まで建て後の世まで崇めた松下内匠とはどんな人だったのだろう?
路線バスでJR岐阜駅前に戻った。まだ12時前である。コインロッカーから荷物を出す時、これからまた何処かに行くか、このまま帰るか思案した。遠路岐阜まで来てこのまま帰るのは勿体無いという気もした。次の赤坂宿へ行くも良し、岐阜城観光をするも良し。成果は乏しかったものの三日間の予定は全て終えた。結局JR岐阜駅から東海道本線で名古屋に移動、名古屋駅から新幹線で帰路に着いた。何時も思うのだが、旅に出る時よりも帰る時のほうが何故か嬉しい。以前はもっと絵を描くことに貪欲であったように思う。1枚でも多く描こうと周りが暗くなるまで粘ったこともあったのに・・・。大宮には陽がまだ高いうちに着いた。