中山道69次宿場巡り

(2010年Ⅰ期)

 

 

10・04.06(火) 軽井沢宿・沓掛宿

 

 今月下旬長崎に行く予定があるので、それまでに中山道のどこかに行きたい。今年中に軽井沢宿から馬籠宿までを終える計画である。今年は4月になってからも寒い日が多い。標高が1000mもある軽井沢より、400m位の妻籠あたりから始めたい。妻籠まで行くなら2泊くらいして、ついでに須原、野尻、三留野、馬籠にも行きたいのだが、何分好天が続かない。

 6日の天気予報は、軽井沢で最高気温19℃。7日はまた10℃以下に下がるとのこと。週間予報も芳しくない。急遽軽井沢・沓掛へ日帰りで行くことにした。

 大宮駅9:06発あさま509号にて軽井沢着9:49。普通電車で東京駅に行く時よりも早く着いた。軽井沢駅でしなの鉄道に乗り換え、中軽井沢駅着10:05。軽井沢でゆっくりしたいので沓掛宿を先にした。中山道沓掛宿は中軽井沢駅前から西である。資料によると駅東側を流れる湯川沿いの中山道から見た浅間山の眺めが良いらしい。駅を出て先ず湯川に向かった。しかし、この辺りの旧中山道のルートは複雑で、しなの鉄道の線路を越す道がずっと下流にあり、浅間山の眺めの良い場所を探しながらかなり歩くことになった。ぐるっと一巡りしてみて、駅前の橋の上か、橋の下流にある小さな公園から見た浅間山の眺めが良かった。まだ山頂に僅かに雪が残る浅間山の景色が今日の収穫であった。

 沓掛宿は町並みは平凡で、資料でみた土屋本陣から西の道もすっかり変わっってしまったようだ。本陣の白壁の土蔵も建替えられていた。中山道と並行する北側の道や路地を歩いてみたが、宿場らしい遺構は見当たらない。沓掛宿は昭和26年の大火で全焼し、その後の町づくりの過程で地名まで中軽井沢に変わってしまった。駅前の長峰神社に戻り、沓掛時次郎の石碑などを見る。

 軽井沢に戻るにはまだ早いし、沓掛宿が期待外れだったのでタクシーで借宿に行ってみることにした。借宿は追分宿との間の宿場で信濃追分駅にも近い。馬や牛による運送業者の宿場として賑わったそうだ。借宿の町並みはガイドブックの画像で見た通りであった。杉玉のある酒蔵など古い家もポツポツと残っていた。廃屋同然の建物もあるが、幾世代か遡ったような旧街道の佇まいがある。浅間山も沓掛で見るよりもさらに大きく見える。借宿は今日の予定にはなかったが来た甲斐があった。

湯川と浅間山
湯川と浅間山
借宿の町並み1
借宿の町並み1
借宿の町並み2
借宿の町並み2

 借宿から歩いて信濃追分駅に出た。しなの鉄道の無人駅で、ホームからも北側に浅間山がよく見える。南側も雄大な景色が広がっている。ホームの待合室で次の電車を待つ間も誰も来ない。浅間山を眺めながら昼のおにぎりを食べた。やがて到着した2両編成の電車に乗って軽井沢へ。

借宿より浅間山
借宿より浅間山
信濃追分駅より浅間山
信濃追分駅より浅間山

 軽井沢では4時間くらいを予定していたが、歩く時間が惜しいので、タクシーで碓氷峠下の二手橋まで行く。片道をタクシーでバイパスし、旧宿場の東のはずれから西に向かって歩くことにした。タクシーに乗り運転手さんに二手橋へと言うと、旧中山道や碓氷峠の本を何冊も出したのには驚いた。既に読んだことのある本もあった。最初は商売熱心な運転手さんだな思った。どうも話を聞いていると本人も中山道に興味があるらしい。薮原宿に名産のお六櫛を買いに行った話などを聞いているうちに二手橋に着いた。軽井沢宿の飯盛女たちが一夜を共にした客を翌朝この橋まで見送ったことから二手橋(にてばし)と呼ばれるようになったとか。

 二手橋のすぐ西にショー記念礼拝堂があった。木造の小じんまりした教会や別荘第1号となった山荘は期待した通りだ。礼拝堂を正面から鉛筆で下書きした。礼拝堂の中には灯りが燈されていて、靴を脱いで見学も出来るらしいが、先を急ぎたいので入らなかった。

 ショー記念礼拝堂のさらに西につたや旅館があった。旧茶屋跡を旅館に建て替えたものらしいが、看板や窓の連子格子に昔の面影を残している。大きくはないが多くの明治の文豪が執筆に滞在したという老舗旅館である。つたや旅館から駅前通りとの交差点(旧軽ロータリー)あたりまでが軽井沢宿であったそうだ。

 軽井沢は明治時代の半ばから避暑地開発が進み、旧宿場も別荘族向けの商店街に変貌してゆく。現在の旧軽銀座通りには都会風の新しい店が多く、旧街道の面影を残す建物は消えてしまったようだ。軽井沢には旧三笠ホテルや万平ホテルなど有名なスケッチポイントもあるが、中山道からは距離も遠く関連性も薄いので割愛した。中山道の1本北を通る江戸初期以前の古中山道沿いにある聖パウロパトリック教会に立ち寄ってから歩いて軽井沢駅まで戻った。予定より2時間も早い。

二手橋
二手橋
聖パウロパトリック教会
聖パウロパトリック教会
ショー記念礼拝堂
ショー記念礼拝堂
旧軽井沢銀座
旧軽井沢銀座
軽井沢観光協会(旧郵便局)
軽井沢観光協会(旧郵便局)
唐松並木
唐松並木

10.06.10(木)岩村田宿、塩名田宿、八幡宿

 

 天気予報によると梅雨入りは今週末以降?それまでに中山道に行ってきたい。6月22日から始まる彩の国を描く会作品展への出品作のメドもたった。沓掛宿の次の追分宿、小田井宿、上田駅からJRバスを利用する長久保宿、和田宿にも早く行きたいが、上田のMさんにも会いたいので、こちらは秋に計画したい。天気予報も良いので、1泊2日の日程で岩村田宿~芦田宿に行くこととした。5つの宿場を2日で周るのはちょっときついが、佐久平駅前から千曲バス中山道線とタクシーを利用して5宿場を巡る細かい計画も立てた。佐久平駅前のビジネスホテルをNetで予約。(家内がNetで調べてくれ新しくて評判もまずまずとか。)かなりの距離を歩くので荷物も最小にし、ミニノートも置いていくことにした。

 10日9:06大宮駅発あさま509号にて佐久平着9:58。佐久平駅前からタクシーで八幡宿八幡神社へ。今日は八幡宿→塩名田宿→岩村田宿の順に遠いほうから近いほうへ3宿場を訪ねる予定。

 八幡神社は宿場の東のはずれにあり宿場名称の謂れともなった。境内は狭いが見るからに古い神社である。非常に細かい装飾をほどこした2階建ての随神門は見事な建物である。案内によると江戸末期の建立だそうだ。八幡神社から西へ中山道を歩く。街道沿いには白壁、出桁造りの建物も点在する。八幡中町交差点西側の町並みが良い。交差する南北の道沿いにも古い建物が連なる。宿場西の外れあたりまで歩き、再び八幡神社まで戻った。バスの時間まで間があるので、神社前の景色をスケッチしたり、神社裏の路地や田園風景なども写真に撮った。

八幡神社隋神門
八幡神社隋神門
本陣跡
本陣跡
八幡中町の町並み
八幡中町の町並み

 八幡神社前からバスに乗り塩名田へ移動。塩名田バス停から東の町並みは平凡だ。バスで渡った千曲川まで歩いて戻る。千曲川の手前に川原宿の表示がある一角がある。バス道から河畔にかけて湾曲した下り坂になっている。資料で見た木造三階建て茶屋跡「喜登屋」があった。「角屋」と屋号の看板が変わっていた。亀子誠さんが描いた喜登屋の近くにあった大ケヤキは消失してしまったようだ。今日の目標の一つにしていたのでガッカリしたが、川原宿の佇まいは期待通りであった。昔は千曲川を控えて大変賑わった宿場らしい。塩名田「上の宿場」であるが千曲川畔にあることから川原宿と呼んだのだろう。街道沿いの家には屋号の看板が掛けられている。昔の船宿跡だろうか今は大きな鯉料理屋だ。近くの河川敷には昔の渡し場の遺跡「舟つなぎ石」があった。千曲川は平水時には数艘の舟をつなぎ、舟の上に板を渡した「舟橋」を歩いて渡ったそうだ。この日の千曲川は、川床を歩いても渡れそうなほど水位が低かった。川原宿の上の中津橋を渡ると御馬寄、その西側に下原の集落があった。ゆるやかな坂道の両側に古い家もポツポツと残っている。

川原宿の町並み
川原宿の町並み
川原宿より千曲川対岸の集落
川原宿より千曲川対岸の集落
下原の町並み
下原の町並み

 再びバスで岩村田に移動し、先ず武田家の墓所龍雲寺を訪ねた。立派な山門には武田菱の紋章が見える。龍雲寺には期待していたが良いアングルがない。というより何時もながら立派な神社仏閣には何故かあまり惹かれないのである。

 岩村田は城下町であり、甲州街道も合わさり古くから佐久地方で最も栄えた町である。しかし現在の宿場中心部は、アーケード商店街になっており昭和の名残はあるが旧街道の面影はない。アーケード商店街に交差する脇道に僅かに古い家が残っていた。岩村田では唯一旧街道らしい風情があった。中山道をさらに岩村田高校あたりまで歩いてみたが町並みは平凡だった。この日は大変暑く、高原なのに日中気温が28度まで上がったらしい。

 岩村田宿が期待外れだったので小海線岩村田駅から電車で佐久平駅に戻り予定より早くホテルにチェックインした。9階に展望風呂があり桧の露天風呂もあった。広い風呂に貸切状態で入ることが出来、旅館に泊まったような気分であった。

龍雲寺山門
龍雲寺山門
龍雲寺境内
龍雲寺境内
岩村田宿脇道
岩村田宿脇道

10.06.11(金) 望月宿、芦田宿

 

 ホテルで朝食を済ませ、佐久平駅前8:56発の千曲バスにて芦田(立科町役場前)着9:34。今日も遠いほうから。

芦田は小さな宿場であるが、鉄道から離れていることもあり、僅かではあるが古い建物も存在する。本陣土屋家はかなり良い状態で残されていた。部屋を見ることは出来なかったが、外観を鉛筆スケッチすることも出来た。旅籠跡の「金丸土屋旅館」や味噌・醤油の醸造店「酢屋茂」が現在も営業している。保存が良く1軒だけでも描いてみたい対象である。

 

本陣土屋家
本陣土屋家
酢屋茂
酢屋茂
金丸土屋旅館
金丸土屋旅館

 芦田には2時間余り居て、バスで望月に戻った。最初の予定では茂田井(望月と芦田の間の宿)にも立ち寄り、先年行った時に残した場所にも行って見たかったが、今日もまた暑くなりそうなのでパスすることとした。芦田からのバスの乗客は自分一人だけ、運転手さんに望月の大伴神社に行きたいのだがと、近い停留所を尋ねたことから運転手さんのほうから話し出す。どうやら年齢もそう違わないようだ。話が弾んでお互いの家庭の事情まで話す羽目になった。年金を貰う歳になってもこうして働いているのだと言っていたが、どうしてどうしてすこぶる元気そうであった。遊びで絵を描いたり、写真を撮り歩いているのが恥ずかしいくらいである。長久保、和田方面へは芦田から立科町営のバス便があるとの情報も得られた。両宿場へはJR上田駅前からJRバスの便しかないと思っていたので非常に有難い情報だ。大伴神社の場所は運転手さんも知らなかったので、望月バスターミナルで降りようと思っていた。望月に入って間もなく、車窓から鳥居と石段が見えたので、運転手さんに言ったらバスを止め降ろしてくれた。バスの運転手さんに「お元気で」と言い、運転手さんも「お互いに」と答えてバスを降りた。

 大伴神社の石段を上がると、望月宿の町並みが一望できるとの情報があったので神社まで上ってみた。家々の屋根は良く見えるが、神社の位置からは中山道は見えない。屋根の並びから道があることすら良く分からない。大伴神社から横に伸びる上の道を市役所支所まで行き再び中山道に下りた。中山道沿いには昔ながらの商家もポツポツと残っている。坂道やカーブ(枡形跡?)もあって町並みもまずまずだ。望月は鹿曲川沿いに出来た宿場で坂が多い。宿場入口に近い望月橋下流左岸の崖下に赤い屋根の石窟があった。屋根の上の崖に何か大きな文字が彫られているが良く見えない。ばん(虫へんに番)龍窟と書かれているらしい。山上には社も見える。望月歴史民族資料館にも行きたかったが、大伴神社下まで戻らないといけないので諦めた。予定より早いが、バスで佐久平駅に戻り、佐久平駅発14:11あさま528号に乗った。

望月宿家並み
望月宿家並み
望月宿町並み
望月宿町並み
ばん龍窟
ばん龍窟

10.07.19(月) 下諏訪宿、塩尻宿

 

 前夜宿泊したH君の山小屋を11時過ぎにH君の車で出発。最寄のJR中央本線小淵沢駅で降ろして貰う。H君、N君と別れ、一人で長野行き普通電車に乗り下諏訪駅へ向った。今朝の天気予報では今日もこの地方の最高気温は30度を超えるそうだ。電車から降りるとすでに非常に暑い。諏訪大社春宮までタクシーを利用し、春宮から旧中山道を秋宮経由で下諏訪駅まで歩いて戻ることにした。

 春宮前の参道に「下馬橋」があった。川が暗渠になったため、道路の真ん中に屋根付きの太鼓橋だけがでんと居座っている。参勤交代の大名などもここで馬を降りたらしい。

 春宮から旧中山道へ向かう途中、諏訪湖の湖面が見える箇所があった。諏訪湖まで以外に近い。秋宮までの中山道は道幅も狭く、僅かではあるが古い家も点在する。秋宮へ向かっての急な上り坂の手前に、道の両側に旧旅籠跡らしい古い旅館があった。下諏訪宿は甲州道中の終点でもあり、中山道で唯一温泉の沸く宿場として賑わった。街道沿いにその源泉跡が何箇所かあった。

下馬橋
下馬橋
下諏訪宿町並み
下諏訪宿町並み
本陣岩波家跡
本陣岩波家跡

 坂上に本陣跡(岩波家)があった。表門を入ると木立の中のアプローチが玄関まで通じている。母屋や奥に見える土蔵はかなり古い建物のようだ。見るからに老朽化し痛んでいるようだ。母屋や玄関の写真を撮って帰ろうとすると、カメラのフラッシュに気づいたのか、玄関から出てきた老婦人に呼び止められ、中の部屋や庭も見て行けと勧める。入館料(300円)を支払って中に入ると、玄関にある展示物(大名が宿泊した時に外に掲げる大きな木札等)について丁寧に説明してくれる。どうやらここの案内係が老婦人の仕事なのだろう。上品な顔立ちや言葉遣いから岩波家の関係者かなと想像しながら聞いた。20分ほどの長い説明から解放されて、奥の部屋や庭園を観た。部屋の中にも皇女和宮が宿泊したことや、和宮に関する資料が展示してあった。

 しかし、和宮や参勤交代の諸大名が利用した上段の間はここにはなく、隣の分家であるホテル内にあるため観ることができない。隣との境界には塀があり、自由に行き来できない状態になっている。どうやら複雑な事情があるらしい。庭の奥に非常に古い土蔵があり、300年以上前の建造物なのに地震にもビクともしないという。土蔵の写真を撮りたかったが、残念ながら充分なスペースがない。

 秋宮から下諏訪駅前にかけての中山道沿いには特に遺構もなく景観も凡庸であった。予定よりかなり早いが塩尻へ移動することにした。

本陣宿泊大名の木札
本陣宿泊大名の木札
本陣の庭園
本陣の庭園
諏訪神社秋宮の御柱
諏訪神社秋宮の御柱

 塩尻に着き、先ず予約していたAホテルにチェックイン。ビジネスホテルであるが旅館のような佇まいである。部屋も思ったより新しく清潔だ。汗をかいたのでシャワーを浴び、ビールを飲んで仮眠した。夕方6時頃目が覚めて窓を開けると、眠っている間に夕立があったのか外は少し涼しくなっている。今日の予定にはなかったが、塩尻宿を途中まで歩いてみることにした。ホテルから中山道を東へ歩いて25分ほどで、旧道との分岐点大小屋に着いた。旧道に入ってすぐ旧本陣跡(堀内家)があった。堀内家は本棟造り(切妻妻入り出桁)の非常に大きな家である。大屋根には雀踊り(雀おどし)という飾りがある。隣に堀内医院の看板のある古い家がある。こちらが現在の堀内家だろうか。

 旧道が再び新道と合流するあたりに古い神社があった。阿禮神社である。境内には大きな木が鬱蒼と茂り、周りがよく見えないくらいである。写真も良く撮れないくらい日も暮れてきた。帰りの時間も気になったので、まだ宿場西の入口あたりまでしか来ていないが引き返すことにした。

旧本陣跡(堀内家)
旧本陣跡(堀内家)
堀内家母屋
堀内家母屋

10.07.20(火) 洗馬宿、本山宿、塩尻宿

 

 ホテルを8時前にチェックアウト。塩尻駅8:16発のJR中央本線普通電車(中津川行き)で洗馬へ。洗馬駅を降りてから、キャスターを塩尻駅コインロッカーに預けてこなかったことを悔やむ。洗馬駅は無人駅でコインロッカーもない。駅前には何も無く無論タクシーもない。仕方なくキャスターをゴロゴロと引いて歩かなければならない羽目になった。

 洗馬は、昭和7年(1932年)の大火で宿場の殆どを消失したことを知っていたので、期待度は低かったが予想以上に何も無い町であった。東のはずれに北国脇往還(善光寺西街道)への「分去れ」(追分)があり、幕末には本陣1、脇本陣1、旅籠29軒を数えたが今はその面影はない。分去れには小さな道標があるだけ。分去れの中山道側に古い土蔵と旅籠跡のような建物があった。

 洗馬宿の西のはずれまで歩いたが、旧跡に案内板や石碑などがあるだけ。宿場中ほどに満福寺の赤い門があり、その隣に風格のある民家があった。

旧い土蔵など
旧い土蔵など
満福寺の門と民家
満福寺の門と民家

 予定よりも早かったが、重い荷物があるため下り電車で塩尻駅に戻り、コインローッカーに荷物を預け、次の上り電車を待って日出塩駅へ。中央本線の塩尻・中津川間の普通電車は上り下りとも日中は2時間に1本しかない。このような手違いが生じると、時間的にも大きなロスであった。
 日出塩駅も小さな無人駅である。洗馬駅同様駅前には何も無い。本山宿は日出塩駅から中央本線沿いに東に約2kmも離れている。この日も日中は30度を越す暑さで、全く日影のない道を歩いているとじっとりと汗をかく。本山宿には僅かであるが今も旅籠群の町並みが残ることを資料で確認していたので楽しみであった。本山の集落に入ると、袖ウダツのある切妻出桁造りの旅籠跡がポツポツと残り、旧宿場らしい町並みを形成していた。全部で10軒くらいあっただろうか、1軒1軒はさほど大きくはないがそばで見ると、柱も太く頑丈な造りである。2階の連子格子が大変美しい。屋号の看板を掲げた家もあった。

本山宿町並み1
本山宿町並み1
本山宿町並み2
本山宿町並み2
出桁造りの旅籠跡
出桁造りの旅籠跡

 そのうち、日出塩駅方面への市営コミュニティーバスが来たので、運転手さんに桜沢まで行くか尋ねたら行かないと言う。次の贄川宿との間にある桜沢には茶屋本陣跡や木曽路の道標があるので行って見たかったが諦めた。桜沢まではここから4.5kmもあるので歩いてゆく気力はなかった。宿場内の数箇所にコミュニティーバスの停留所があり、塩尻駅前行きのバスが間もなく通ることも分かった。この暑さでは日出塩駅まで歩いて帰ることも億劫になっていたのでバス便があるのは有難たかった。塩尻市地域振興バスが正式名称である。塩尻駅前~奈良井宿間など1日数便運行している。中央本線の普通電車が少ないため、塩尻宿~奈良井宿の中山道巡りには塩尻市地域振興バスをうまく利用するのが賢明だろう。

 地域振興バスで塩尻駅前に戻り、タクシーで塩尻宿東のはずれにある永福寺まで行き、昨日残した塩尻宿を歩いた。永福寺の歴史を感じさせる伽藍は想像以上であった。中でも階段の上にある茅葺屋根の観音堂は絵になる景観である。

永福寺山門
永福寺山門
観音堂
観音堂

 永福寺あたりから西が塩尻宿である。この界隈には僅かではあるが土蔵のある古い民家も残り、町並みに鄙びた昭和の面影が感じられる。塩尻宿は駅から2.5kmも離れたため、駅を中心とする都市化の進展から取り残されたようだ。
 永福寺から昨夕来た阿禮神社まで歩いた。古い造り酒屋(武井家、銘柄は笑亀)など旧家も点在するが、街道らしい町並みは見られない。資料によると文政年間と明治の大火で宿場の大部分を消失したそうだ。

塩尻宿町並み
塩尻宿町並み
阿禮神社
阿禮神社
武井酒造
武井酒造