中山道69次宿場巡り

(2008年)

 

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08年9月1日(月) 倉賀野宿

 

 9:03大宮駅発高崎線快速アーバンにて10:09倉賀野駅着。先日、大宮公園の歴史と民族の博物館売店で見つけたテレビ埼玉・群馬テレビ編「中山道風の旅」日本橋ー碓氷峠編を読んでから、無性に中山道の宿場を訪ねてみたくなった。同書に旧中山道の面影を残すのは倉賀野から西との記述に魅かれ、まずは手始めにと倉賀野を選んだ次第。

脇本陣跡         
脇本陣跡         

 同書などから予め調べておいた脇本陣跡に向かう。風格のある門構えに連子格子の美しい建物はすぐに分かった。後でスケッチをすることにし、何枚か写真を撮ってから次のポイント追分と閻魔堂へ。

 途中の中山道には古い建物も点在するが連なる街並みは残っていない。写真を撮りながら歩いていると近くの商店主らしい人から声をかけられ、「倉賀野めぐり(第3号)」を頂戴する。倉賀野まちづくりネットワーク発行の倉賀野の史跡などを掲載した美しいパンフレットだ。観光町づくりにも力を入れ始めているようだ。

 

         閻魔堂
         閻魔堂

 閻魔堂は、倉賀野宿の東端に位置し、中山道と日光例幣使街道との分岐点に建つ。中山道側の民家の駐車場に日陰を見つけて閻魔堂を1枚デッサンする。 

 再び脇本陣に戻り、テレ玉版「中山道風の旅」掲載の写真とは逆の方向から、ボール紙にダーマトグラフで下書きしざっと色付けする。仕上げは帰ってからにして次のポイント烏川へ。

 

烏 川          
烏 川          

 烏川は中山道の西を流れる大川で、江戸時代には利根川水系最上流の河岸が築かれ、米など船運の要衝だったそうだ。倉賀野宿繁栄の源である烏川も今は倉賀野河岸跡の碑が立つだけ。広い川原に風が吹き過ぎる。日陰もないので写真だけ撮って河川敷の公園の木陰で遅い弁当にする。今日は歩いていると汗ばむほどに暑い日だ。涼風が心地よい。

 予定より早いが倉賀野駅より午後2時前の電車に乗り帰路に。

08年9月11日(木) 深谷宿

 

 9:03大宮駅発高崎線快速アーバンにて9:46深谷駅着。今日は天気予報が良いので、思い立って深谷宿へ。彩の国を描く会例会で一度来たことがあるが、そのときは駅前で描いたので、旧中山道へは今日が初めてだ。

 深谷駅から旧中山道までの間に似たような通りが何本もあり分かりにくい。深谷のシンボル滝澤酒造の煉瓦煙突を探したが駅前あたりからは全く見えない。中山道に着くとすぐに古い酒蔵があった。周囲を一巡りしたが良いポイントがない。ここが七つ梅酒造らしいが門には看板も無い、どうやら既に廃業しているようだ。

 中山道をさらに北へ行くとようやく左側に滝澤酒造の煙突が見えてきた。店の正面は街道沿いの造り酒屋らしい風趣がある。左右に妻入りの土蔵が連なる。スケッチをしたいが日陰がない。店と蔵との間の路地に残る煉瓦塀、工場の裏通りなどにもスケッチポイントが幾つかある。裏通りの民家の塀の脇に恰好の日陰を見つけ、工場跡らしい古い建物と煉瓦塀をボール紙にダーマトグラフで描く。さらに煉瓦塀の路地を中山道側から描く。ボール紙にダーマトグラフは相性がよく滑らかで描きやすいが、透明水彩絵の具の発色が悪いのが致命的な欠点である。

 その後深谷駅に戻り、煉瓦造りの駅舎を描こうとポイントを探したが、余りにも新しく綺麗すぎる。今朝見たホームからの眺めが気になっていたので駅構内へ。ホームからだと立派すぎる駅舎のインパクトもいくらか弱まるように思う。深谷は澁澤栄一の出身地である。澁澤栄一が故郷に興した日本煉瓦製造会社で造られた煉瓦が東京駅などに使われたそうだ。そんな史実に因んで東京駅を模した駅舎が出来たのだろう。

 今日は岡部の島護養蚕神社や養蚕農家跡も訪ねてみたかったが、非常に暑い日だったので出直すことに。また上敷免の日本煉瓦資料館に保存されているホフマン窯なども見たいものだ。

七つ梅酒造
七つ梅酒造
滝澤酒造構内2
滝澤酒造構内2
深谷駅構内
深谷駅構内
滝澤酒造
滝澤酒造
滝澤酒造構内3
滝澤酒造構内3
滝澤酒造構内1
滝澤酒造構内1
深谷駅
深谷駅

08年10月27日(月) 桶川宿

 

 急に思い立って午後から桶川へ。JR桶川駅から中山道までは徒歩2分ほど。駅前地区に武村旅館など古い商家が数軒あるが、1戸だけ独立しているため絵になりにくい。川越の蔵造りに非常に良く似た矢部家は桶川では一番魅力のある建物だがこれも1軒だけ。真向かいにある大きな木造建築の材木店と一緒に描けないかアングルを探したが道幅が広くて難しい。結局、材木店横の脇道から店の一部と道路脇の立ち木を入れて描いてみた。途中覗いていった若い男性が褒めてくれたが、ボール紙にダーマトグラフの線描きだけなので、どうやら構図に苦心したのを指してのことらしい。しかし帰ってから着色してみると凡庸な絵にしかならなかった。

 中山道には桶川のように古い民家がポツポツと残る宿場が多いので、こんな時にはどう描いたらいいのだろうか?桶川は大宮からは近いので何時かまた出直したい。

武村旅館
武村旅館
矢部家
矢部家

08年10月28日(火) 茂田井宿

 

 9:06大宮駅発新幹線あさま509号にて9:56佐久平駅着、10:11蓼科口発千曲バス白樺湖ゆきにて10:43茂田井中央着。茂田井中央で降りたが、茂田井入口で降りるのが正しい。茂田井入口からバス通りと交差する道を北へ300mほど行くと中山道、武重酒造玄関前に出る。これは後で分かったことで、行きも帰りも道を間違えてちょっと焦ることになる。茂田井地区のバス通りと旧中山道が離れていることを事前に調べてこなかった初歩的なミスだ。バス通り沿いの民家で旧中山道茂田井宿や武重酒造への道を尋ねても知らない人が多いのにも驚いた。分かったときにはかなり西に来すぎていて、茂田井宿へ西側のはずれから入ることになった。

 茂田井宿は西のはずれから下り坂になっていて、古い民家もあり風情のある落ち着いた街並みが続く。やがて大澤酒造前から急な坂道を下ると武重酒造前にでる。白壁の建物が連なる茂田井宿の核心部である。武重酒造のあたりが茂田井宿の東のはずれで緩やかな上り坂になる。

 大澤酒造前に戻り、坂上からみた街並みを立ったままF4紙に描く。次に坂を下って大澤酒造を見上げる構図で同じく1枚。同じ場所から反対側の武重酒造前の通りも1枚描いた。色付けは後にして全て鉛筆スケッチのみ。ポイントが多いので枚数を稼ぎたい。このあたりは蛇行する坂道の両側に白壁と板塀の酒蔵や塀が連なり、アングルを変えれば何枚でも描けそうだ。大澤酒造前から裏の畑に出る狭い坂道もいい。路地を抜けると前方は一面の畑、右側に伸びる中山道と並行した道を辿るとのどかな農村風景が開けていた。武重酒造に戻り、玄関前の通りをOKサンド紙6号にダーマトグラフで1枚。(この頃は彩の国を描く会の喜多先生の影響もあり色んな画材を試していた。)
 帰りのバスの時間が気になるが、バス停までの道が分からない。道を尋ねたくても人影がない。東に向かってかなり坂を上った民家の庭にやっと人が見えた。バス停を尋ねると何処までというので佐久平駅までというと、それなら武重酒造の玄関前の道を真っ直ぐ行けば突き当りがバス停とのこと。行き先によってバス停が違うのだろうか。知らない土地に行くときはGoogleマップやゼンリン電子地図帳などで綿密に調べるのに今回は少し甘かったようだ。
 茂田井入口15:41のバスに乗る。佐久平駅から予定していた新幹線より1本早い便で帰れた。

茂田井宿町並み
茂田井宿町並み
武重酒造前1
武重酒造前1
大澤酒造前
大澤酒造前
武重酒造前2
武重酒造前2
裏道り農家
裏道り農家
武重酒造玄関
武重酒造玄関

08年11月14日(金) 板鼻宿・安中宿

 

  9:03大宮発高崎線快速アーバンにて10:14高崎着。10:21高崎発信越本線横川行にて10:33安中着。安中駅前からタクシーで板鼻へ。鷹之巣橋を渡ったところでタクシーを降りたが意外に近かった。歩いても20分くらいだろうか。目標の板鼻堰用水と中山道がぶつかる場所まではすぐ。そこから用水と中山道をぐるりと一巡りしてみた。中山道沿いにはてうちん屋(花屋)など古い民家が点在するが連なる街並みはない。街道をあきらめ板鼻堰用水に戻り、用水沿いの景色を2枚素描する。用水沿いには水を庭に引いて鯉の養殖をしている民家や廃墟になった旅籠跡らしい建物なども残る。用水沿いの木々の紅葉が美しかった。

 しかし、板鼻には期待していたほどのスケッチポイントがない。諦め歩いて安中駅に戻ることに。前方には東邦亜鉛(安中鉱毒事件の元凶)の工場が山上までびっしりと建ち上がる。帰りに時間があれば工場群も描いておこうと思いながら駅前のマックで休憩。

てうちん屋
てうちん屋
旧中山道と板鼻堰用水
旧中山道と板鼻堰用水
旧旅籠跡?
旧旅籠跡?

 再び駅前からタクシーで新島襄が布教したという安中教会へ。教会の門が閉まっていて中に入れない。教会の庭では幼稚園児が大勢遊んでいる。仕方なく垣根の外から礼拝堂など写真を撮っていると、見回りの人が門を開け中に入れてくれた。新島襄記念会堂の正面から1枚素描。先ほどの人が近くの小学校や中学校の生徒も皆ここから描くのだという。そう言われてみると正に絵葉書のようだ。幼稚園の退園時間なのか迎えの若い母親たちが教会の庭に集まりだしたので早々に退散。教会とは道を挟んで隣の旧安中郡役所跡も入れて描けないかアングルを探したがスペースがない。

 旧中山道に戻り伝馬町から坂上まで歩く。坂上には古い薬局などもありレトロな街並みが続く。坂上から右手の山手に上がり武家屋敷跡や住宅街を歩く。武家屋敷跡はいかにも書き割りのような保存建造物である。中山道に戻り伝馬町から今度は東へ。こちらも古い商家がポツポツといった印象だ。

 安中は九十九川と碓氷川に挟まれた台地に開けた城下町である。坂が多いのでゆっくり探せば隠れたスケッチポイントが発見できそうな魅力のある町だ。碓氷川に架かる橋を渡って安中駅まで歩いて戻る。電車の発車時間まで間があったので駅前歩道橋の上から東邦亜鉛工場群を1枚素描する。16:13安中駅発高崎行きの電車に乗る。

新島襄記念会堂
新島襄記念会堂
安中郡役所跡
安中郡役所跡
坂上の町並み
坂上の町並み
安中駅と東邦亜鉛工場
安中駅と東邦亜鉛工場
武家屋敷跡
武家屋敷跡

08年12月11日(木) 蕨宿

 

 大宮駅より京浜東北線にて蕨駅へ。蕨駅から中央商店街、中山道商店街を通って旧中仙道との交差点まで徒歩約15分。蕨宿は埼玉南部では一番鉄道駅から離れている。高崎線が出来る時、地元の反対で中山道から1kmも東に線路を敷いたからだ。当時の民家は茅葺き屋根なので、汽車の煙で火事になることを恐れたらしい。今では信じられない話だが実際に汽車から火の粉が飛び火して火事になったところもあったそうだ。

 駅前通りと中山道との交差点の路面に中山道69次の地図が描かれている。中山道の両サイドの歩道上にも各宿場の名板が埋められている。蕨宿を歴史的遺産あるいは観光資源として守っていこうとする地元の熱意が感じられる。交差点から戸田寄り約100mに歴史民族資料館分館がある。明治20年築の織物問屋跡だ。交差点から浦和寄り約100mに同本館がある。本館には復元された本陣門があり、内部には蕨宿の模型や当時の旅装束、本陣や旅籠での食事内容など中山道の旅に関する珍しい資料が展示されている。蕨宿が江戸末期から明治時代にかけて織物の町として繁栄した歴史的資料も展示されている。

 歴史民族資料館本館から浦和方向へ進むと、右側に出桁造りの鈴木薬局が現在も営業しており、その先には小じんまりした母屋と土蔵が並ぶ商家跡がある。中山道と17号線との交差点手前には機屋らしい土蔵のある重厚な建物がある。裏手には夜間に織子が逃げないよう跳ね上げたという「はね橋」も残っている。さらに交差点を渡って浦和よりには黒い土蔵のある建物が連なり、機織の街らしい面影の残る場所だ。

織物問屋跡
織物問屋跡
町屋
町屋
歴史民族資料館本館
歴史民族資料館本館
機屋跡
機屋跡
鈴木薬局
鈴木薬局
町並み
町並み